こちらの労作を読ませていただいたので、深い感謝とともに、備忘録としてしたためる。
これを公開することによって私が伝えたいことは「これには読まれる価値がある」以上のものではないので、それを汲み取ってくれたなら、すぐに上のリンク先を踏みに行くのがよい。
備忘録本体
科学では、新しい真実を示すことになっています。科学論文に対して宣告される最も厳しい評決は、あの伝説の査読者評価です。そこでは論文の余白にこう書かれていたといいます。「この論文での新しい内容は正しくないし、正しい内容は目新しくない」。でも本書は科学的発見の報告を意図したものではないし、目新しさを追求していません。自分の語ることがおおむね正しければ、完全に目新しくはなくても満足しましょう。人間の合理性に関する議論で述べるように、ときどき重要な古い真実にも関心を向け直すことが必要なのです。
我々の存在している世界の全ての複雑性を飲み下して推論し、互いに相反する、あるいは関係すらせずに並立している価値観の多次元空間の中を自在に泳いで評価し、もって大域的な最適解を見出すような「超人」は、実感としても、実証としても、もちろん存在していない。この見解は、「近代」が既にボコボコにリンチされて息も絶え絶えになっている21世紀現在に生きている我々が、最低限合意できることの一つだろう。我々は無明ではないが、明らかにそこまで賢くもない。
では、何があるのか?
この『人間活動における理性』と、そこで紹介されている限定合理性はその回答の一つになりうるものだ。私たちの理性は限定的なもので、一度に一つの物事にしか注目することができないし、合理性というのも、基本的にはその限界の中でしか作用しない。本稿ではこの限定合理性の概念、すなわち、真の意味で大域的な最適化を行うこともできず、そもそも局所最適化に必要な勾配の計算すらできているのか怪しいし、「注目」というかろうじてその貧弱な合理性を働かせることのできる狭いスコープの対象でさえ感情によってぐらぐらと揺らめかせてしまう我々の知性の由来と限界と帰結とを論じている。それと同時に、進化心理学の観点から見る「知性」のありようから、そのような「注目に振り回される限定知性」が集まってやる民主主義的意思決定に潜む問題と、それに対応した(その限界をうまく解決するという意味においても、そのような知性がうまく機能してやるようにするという意味においても)社会制度設計についてまでを広く扱い、「人間活動の実際における理性と呼べるもののありよう」について、幅の広い議論を行っている。
1982年に為されたこの議論は、今なお一定の妥当性をもって受け止められるという点において、そこにあまり目新しい突飛さのないものかもしれないし、いくつかの論理にアプリオリな直感の入り込む余地もある──少なくとも私はそう思っている──から、無批判に受け入れることもできそうにない。しかし理性という人間存在の本質が、それの取り巻かれる環境ほどにはここ数十年で劇的に変質しているわけでもないのだから、内容の大半は現在にも通ずるところがあり、傾聴に値するものだと思う。であるのならば、それが私/我々の知的怠慢を意味するのでない限りにおいて、この論説の「古典」としての価値は明らかであると言ってよいはずだ。少なくとも、アリストテレスの科学研究よりは。
それに、面白い話がたくさんある。ニッチへの適応を元にした進化論の議論はその中でもとりわけ興味深かったものの一つだ。大機械学習時代に生きている我々は、これより前の、そしておそらくはこれより後のどんな時代の人間よりも最適化問題に親しんでいるといって間違いないと思う。教養にさえしている。そしてこの論説は、我々自身がまずそうであり、ともすれば我々が、我々自身よりもよく知っているかもしれない、限定された最適化問題を解く知性について、多くの示唆を与えてくれる。それは進化的に獲得されたものでありうるだろうし、「進化」自体も、所与の環境の下で、より適応度の高い遺伝子という解を生み出すという意味において知性と呼べるものだろう。
そしてこの進化にも、やはり、最適化問題を解く能力の観点からして、限界はある。閉鎖的な島のような環境ならいざ知らず、実際に生命が暮らす環境というのは、絶えず新しい生物種が誕生して環境が変わり、ますます複雑になり続け、大小さまざまのニッチが新しく生まれ続けていく環境なのだ。数億年前から姿がほとんど変わらないゴキブリのような生物種の存在は、ニッチをめぐる競争という問題に大域的な最適解があることを意味しない。例えばスカベンジャーという領域においてもいくつもの新しいニッチが生まれ、数千万年前にはネズミのような新しい局所解がそこを埋めている──これは突飛なことではない。作られ続ける新しいニッチを埋める戦略が有効であるからこそ生物は陸へと登った──し、それ以降もそのような局所解は生まれ続けると考えるのが妥当である一方で、しかしその局所解が、やはり遺伝子全体を探索したうえでの最適解であることなど全く意味しない。まだ突然変異のランダム性が偶然そこまで遺伝子を運んでいないだけの、ホモ・サピエンスを超越した超人類を生む遺伝子のセットがあり、それが自然進化によって誕生することなどこの先永遠にないと考える妥当性はあるだろうか?つまるところ、進化という問題解決機構は、絶えず新しいニッチの生まれ続ける動的な渾沌の中で、まあ既知の他の案にくらべればそれっぽい、解らしきものへと遺伝子を運び続ける限定的な知性であり、しかしそれで機能している──我々がそうであるように。
そしてこの進化と我々の知性について、大胆なアナロジーを行うことで、以下のような記憶に値する情熱的な一節も得られる。
人間、少なくともその一部は、ときどき世界が閉鎖空間かもしれないという考えにがっかりします。みなさんの中には、コロンブスがすでに新世界を発見してしまい、発見されるべき別の新世界がもうないということについて、子供時代や大人になってからも、がっかりした人もいるかもしれません。宇宙旅行の動機の一つは、それがまだ占領されていない新しい世界に到達する機会を与えてくれる、ということです。多くの人は明らかに、閉ざされていない世界のビジョンを待望します。そこでは私たちが「まあ、知り得ることはすべて知ってしまったし、やるべきことはすべてやってしまったよ」と言うときが絶対にこないのです。進化するニッチの世界、絶えず複雑性を増す世界は、他の性質がどうであれ、そういう懸念は抱かずにすむ世界なのです。