Twitter上で展開した、文章力向上のためのフォロワー供給ランダムお題利用作文筋肉トレーニングのログです。
1: Twitter
このコミュニティが積み重ねてきた歴史に思いを馳せずとも、"Twitter"という呼称が一定の政治性を帯びるようになったのは、全くもって仕方のないことだと言えるはずです。しかしですねぇ。いくら企業に省庁、そういった社会構造体が"X(旧Twitter)"などという正書法を採用していこうとも、"𝕏"の言い逃れようのない火星的ダサさにあらがうのは常識に従うのと同じ、ごく普通の感覚の表現、無理を通す権力への市民的な抵抗に他ならないのですから、我々が咎められるのもどうにもおかしい。そこに政治の源泉もあるのでしょうが。ともかく、𝕏ですからね、Xでなく𝕏。数学用に誂えられた記号を目的外に使用するようなこの記法はなんとも"Twitter-er"的ではありますが、そのような出る杭の至るところで叩かれ、折々に文化が衝突し、渾沌の中に無秩序な均質性が演出されている、激情的ながらもちいかわ的な虚無のあるこの空間の稀有な政治的中立性は他の空間には中々育まれづらいもので、もう少し浸っていたいところですよね。やがて、いつかは、北米のコミュニティがそうなっているように、ここも特定の党派による巨大なエコーチェンバーになるのでしょうけど、まだ我々の目の前には騒乱が存在してくれています。
2: Instagram
悪意が見えますよね。ツイッター的な悪意が。あなたはきっと心底驚くと思うんですが、私だってInstagramをやっていないわけではないんですよ。ええ。私はHardbassという東欧生まれの電子音楽ジャンルが好きな ので、それの主要なアーティストがだいたい西側向けの発信窓口としてInstagramのアカウントを持っているので、それをたま~に追跡するためにadastra1961という アカウントを持っているんです。この3年で両手に収ま る数しか覗いていませんが。人とSNSの距離感なんてそんなものではないですか?本来。我々は、デザイナーが心血注いで作った、活字を読まずに巡れる画像の砂漠、メガバイトに比して有意性の無い写実のフィードよりも、もっと有意義なことに時間をかけるべきなのですか ら。例えばそうですね、価値観の近くて親しみやすい、尊敬できるひとびととの交流とか、そういったことに。
3: 大ドイツ主義
ここ最近はドイツ統一史が一番好きな歴史的モチーフなんですよ。共和主義、キリスト教、フォルキッシュ、ライフリング、絶対権力……近代という巨大なうねりが思う存分にその力を振るうシアターとしてドイツという歴史的領域は最高の土俵でしたよね。だってそうですよ、フリードリヒ大王以来の軍国主義の伝統を二度の世界大戦で敗北するまで輝かせ続けたベルリンの帝国主義者の鮮烈であることはもちろんですが、叩かれて、叩かれて、それでも鍛造されて立ち続ける多民族帝国という一つの理想を叶えたように見せかけてずたずたに崩れ落ちるという屈辱を受けたオーストリアもまたプロタゴニストとして相応しい。そういう意味において、分かたれ、踏みにじられ、混乱し、戦いに疲れ、それでも廃墟から、いつの間にやら秩序への脅威となって立ち上がってくる、分かたれたドイツという表象はとても魅力的ですね。やっぱり、ドイツはたくさんあった方が嬉しいですから!
4: ロシア宇宙主義
地上に何人そういう連中がいるのかはわからない。だがこの世には、地上のありとあらゆるところで、歴史のありとあらゆる時点で、そこに生きている一人一人の人間の尊厳が決して辱められるようなことがあってはならない、あまねく全ての人間が、一切の欠乏から、将来の虚無から、最も確実なやり方で救われていなければならないのだ、と考える連中がいるだろうよ。そしてロシア宇宙主義の潮流は、少なくとも世紀転換期のロシア帝国において、彼らが孤独ではなかったことを示している。ドストエフスキーに象徴されるように、キリストの永遠のいのちへの信仰が熱力学と実存主義の挑戦を受けていた暗黒と虚無の時代にあって、宇宙主義者たちは、夜空の暗闇の向こうに人類の将来を幻視した。つまり、輝く星々の全てを自在に搾取して全ての欠乏を解決し、死、貧困、分断、その他一切の問題に完全に終止符を打ち、太陽よりも長く繋栄する、約束された千光年王国、永遠の星間帝国をだ。彼らの遠大な野望のうちで実現されたものは数え上げられるほどしかないかもしれないが、この星の、生命のゆりかごに人類をとどめ続ける重力の鎖から我々を解き放つためにツィオルコフスキーによって考案された夢の跡: 多段式ロケットは今日も打ち上げられる。そうだ、博士、それがあなたの望みだったから!
5: ガザ
こういう返答に困る政治的な話題を投げ込んでくるのがplaceholderという感じだよな。何を求めているのか知らんが、どう言っても困るので困るんですよ。というのも、私は、私が、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去するための努力を、半世紀にわたって、まあ、おおむね退歩よりも進歩の方に多く貢献してきたと言って差し支えないくらいには続けてきた、国際秩序を守るために責任を果たす意思と能力のある最も偉大な国家の主権者であることをしばしば忘れるので、つまり、基本的人権と人間の尊厳の重みについて丸っと了解していたとしても、何を言えるというわけでもないことの方が多いのだ。しかしながら、少なくとも、歴史が、どれだけゆるやかであろうと、前進し続けている限りは、その裁きにいつまでも抗し続けていられることはないはずだ、ということは言えると思う。
6: カップ麺の待ち時間
安藤百福が日清を創業してから一世紀が経つ日も近づいてきている今日日、待ち時間が3分のカップ麺を選んで手に取る方が難しいようにも思うのだけれど、ラーメンタイマーといったら「3分」。そういうことになっている。これは文化だ。国民文化だ。これは全くもって文化でしかないから、私の世代から10か20くらい年を下るときっと共有できない前提になっていくと思うし、ともすると上側についても同じくらいの射程しか持たないかもしれない。しかし、今のところは国民文化だと言ってよいと思う。
「ママとアップルパイのために(for mom and apple pie)」、そういうフレーズがある。伝聞されるところによると、時は遡って第二次世界大戦時アメリカ、「なぜあなたは志願したのか?」、記者にそう取材された兵士たちが、こぞってこう答えたのだという。ママとアップルパイのために。
ところで私は、巨大な徴税権力に支えられた机上で政策を設計する官僚団が、社会に対して害に勝る程度には善を為すと信じているくらいには左翼だという自己理解があって、しかし、自然権と社会契約の題目だけではリヴァイアサンを生み出すには足りず、"共通善"を代表する熱狂的で、情熱的で、均質かつ普遍的なものが何か必要であり続けるはずだ、いや、あってほしい!そう考えるくらいには"共和主義者"だ。
そして自分が帰属している社会にもそういうものがあって然るべきだと、というか、そのように社会が設計されているべき/するべきだと確信しているくらいには情熱的でもあるので考えるわけだがしかし、伝統的価値観を称揚する大抵のフレーズにはそれこそ日清の創業する前から既に手垢がつけられている。なれど「ガチャとカップヌードルのために」ではすっかりアネクドートの調子になってしまうねえ。だが、だがしかし、それでいい、それがいいのだと思っている。つまり、我々の国家権力が依って立つべき共通善、共和国のための道徳というのは、つまり、半世紀後には忘れられている消費財、親のわからないピコピコ、絶滅危惧種のガングロ、歴史の木から伸びた枝でありながらもその根を遮って自由に茂る青葉、不安定で断続的な今日の繁栄を成り立たせるための礎としての自由、そういったものにあるべきだと思うし、それが主権在民の意味するところだと信じている。しかし共和主義者にとっては始末の悪いことに、おれたちの陛下はカップヌードルもお嗜みになられるのだ……
7: 高速増殖炉
省エネ、という言葉を聞かなくなった気がする。あるいは単に私の意識が取り沙汰しなくなっただけかもしれないけれど。少なくとも私の意識は、本当に必要なのはエネルギーの消費を抑えることではなく、発展と環境負荷をデカップリングして持続可能な発展を実現することだと考えるようになったからだ。そのために高速増殖炉が果たせる役割も大きいものだったはずなのだが、技術的な難易度はともかく、「もんじゅ」に象徴されるような技術者組織自体の倫理的機能不全が技術開発の最大の障害となってしまったことは残念としか言いようがない。核融合屋はうまくやれるだろうか?
恒星の寿命よりも長い間人類がこの星の環境を搾取し続けるためには、炭素の固定を行って地球温暖化を逆向きに進めるための、新しく、クリアなエネルギー源が必要であるので、
スケールしづらい再生可能エネルギー以外の方法でエネルギー資源の枯渇に対応するには、海洋そのものを開発可能な資源にすることが肝要であるので、
極大規模の深層学習ネットワークを実現し、非線形な、数学的な美しさのない、20世紀までの知性とは非連続な情報処理機構を利用可能にするためには、並々々列の計算機に相応しい無尽蔵の電力供給が肝要であるので、
カルダシェフスケールを先に進めるためには、質量をより効率的にエネルギーに変換するための新しい経路の開発が肝要であるので、
そのような仕事を為すためには、専門的な工学知識と問題解決能力を有しているのみならず、それがごく限られた人間にのみ与えられた特別な能力であり、ためにテクノロジーが社会に与える利害の如何は自らの責任に他ならないことを理解し、誠実かつ自律的に職務を遂行できる技術者の存在が重要であるので、
次世代エネルギー開発を担うボイラー回転屋さんの仕事と自負に期待する限りだ。
正式名称がわからないけれどこういう文体好きなんですよね。世界人権宣言かな これって世界人権宣言だね 世界人権宣言大好き
https://www.unic.or.jp/activities/humanrights/document/bill_of_rights/universal_declaration/
8: 路傍の雪
高校生のときにまとまった量を読んだドストエフスキーと、電子辞書の中に入っていた青空文庫の数編以外に文学にあまり触れて来ていないことを多少のコンプレックスとして生きてきている人間であるところの私はまず『路傍の雪』で調べ、該当する文芸作品が無いことに少し安堵した。こういったいかにも文学™といった印象を与える語彙に対してまず警戒感と伴に臨むとか、そういった週間の積み重ねが、私のような人間がインテリ風を吹かせて社会をやっていくためには必要だからだ。
恥ずかしい習慣だな。恥ずかしい習慣だよ。君は私がこんなことを望んでやっていると思っているのか?そんなわけが無いんだよな。虚学的知識™のコミュニケーションツールに用いられるようなことのなければ私も大手を振って無知を押し出していくのだけれど。だがそのような虚飾の不快感は"誰にも私がナメられない"という望みの大きさに比べればあまりにも小さいものだし、私はこの望み自体については"望んで"望んでいるようには思う。
塩野七生の『ローマ人の物語』という歴史小説があって、これは歴史小説であって史書ではない、フィクション、嘘、しかもタチの悪いことに真実を解きほぐしてからより面白くなるように依り直したような嘘であるので、こういうものを読んできたと告白すると史学科の2年生くらいにはナメられたりすることもあるのだが、私はそういう人間のことをナメているので、『ローマ人の物語』の文庫版を高校の時分に読破したことを告白することにする。ちな『ギリシア人の物語』も全部読んでる。
で、だ。そこにある塩野の人物評として、「野心×虚栄心」というモデル化がある。曰く、スッラは虚栄心に比べて野心の極端に大きい人であり、ために対外的なイメージを軽視したので英雄とは程遠く、民草から恐怖される独裁者となった。逆にポンペイウスは野心と器に比して虚栄心のみが大きく、「英雄」ポンペイウスの社会的な評価は高かったものの、反カエサル派の筆頭に祀り上げられて討ち取られるところとなる。最後にカエサル、彼は野心も虚栄心も史上に類を見ないほど巨大であり、それが彼を英雄に押し上げたいくつもの人間的巨大さの一つである、という論評だ。このフィクションから私が何を言いたいのかと言うと、巨大さを志向する人間には野心に見合う虚栄心もまた必要であるということと、虚学の知識はいつだって私たちを慰めてくれるということの2つである。
9: 大学受験
本邦の社会の中に厳然として存在し、ある一つの力学を形成しているところの大学受験、その最難関と言ってもいいだろう東京大学のそれを突破したこの私は、大学受験、というよりか東大の入学試験についてアンビバレントな2つの理解を持っている。
というのも、私は、東大の入試を、範囲と水準の両面において大学受験の最難関に位置付けられるに相応しい"高等"なものではあれど、その実、数年ほどを黙々と、高校範囲の理解のための、教科書に書いてあるような基礎事項の解釈(と暗記)と、パターンマッチングに使う引き出しの増築(のための暗記)とに投じ続ければ、自ずと合格ラインに乗ってしまうような、天才性ではなく労働量のみを要求している、王道な資格試験の延長線上に乗るものだと認識している。そのような"単純"な作業の積み重ねが多くの人々にとってはどれほど困難なものであるか、あるいは高々数十回繰り返しただけで語法文法を確実に頭に入れる能力がどれほど先天的な才能に依っているのか理解してはいるつもりでも、これはほとんど時間の投入量(と、時間を有意義に投入することを可能にする頑健な読解力と、若さと遺伝子に支えられた記憶力)のみを評価するような形態の試験に他ならないと考えるに至っている。
しかしながら、この大学で4年も過ごし、5年目に差し掛かった私の常々感じるところは、同窓生たちの悉くがみな優秀で、恐るべきことに大抵は受験勉強と全く関係のないところで一芸には秀でていたり、何をやらせても(運動以外は)たいていうまくこなすことのできる能力どころか自分で何をやるべきか探って勝手に話を進めていく自己管理能力までをも有しており、よしんばそうでなかったとしても、ツーと打てば必ずカーと響く、確かな理解力に裏打ちされた建設的な議論の能力があり、そしてそれが大抵の場合自分の専攻でないはずの全くの異分野にさえ及んでいるという卓越性のことだ。これは全学について共通している、カリキュラムも何もかもが違い、ほとんど入学試験くらいしか共通項のない人々全体について共通しているよき性向であるのだけれど、私の受けた入試はそのようなものを保証するものには思えなかったし、私自身についても、アレをパスするための作業だけでこういった卓越性を身につけたものではないとも思うので、これがどこから来たのか知りたいものだなあ、と思い続けている。
おそらくこの話から演繹されるべき結論は、本来、「確かな読解力と計画性、そして継続する意思力に支えられた知的体力は、人間の卓越性を支える第一のもので、それは愚直な作業によって十分に身につけられ、暗記能力を競うような科挙的なテストで証明できるものでもある」といったものなのだろうけれど、私の精神は大学教育の過程で(あるいは、大学教育のために用意されたもっと前の勉強の段階で)多分に批判的思考を埋め込まれているので、そのような、希望に満ちた素朴な結論を、確たる証拠も批判も無しに受け入れることを拒み続けている。
10: ルッキズム
現実世界におけるルッキズムについては、基本的に人間関係の決定的要因にはならないので清潔感の出るくらいの最低限の整えをやりつつも少しずつ諸々を向上させていき年単位で自分の中の最低ラインを押し上げていけばそれでよい、くらいの見解しかない(それ以上のことを考えている人はインターネットに毒されすぎだと思う、インターネットが主戦場の人間のくせに)ので、Twitterにおけるルッキズム、とりわけ"ガワ"の力について話をすることにする。
Twitterは活字のSNSだ。活字が最も支配的な力を持っているSNSの一つであるところのTwitterは、Meta(旧Facebook)やInstagramのような対抗馬と違って、アカウント所有者に、実生活と、つまり、顔とか服とかマナーとかいった要素とも乖離した、仮想的で独立した人格を運用することさえ許容する。許容されているだけではあるけれども、この構造をうまく利用できる人間なら、自分の身体性から自由になることもできるだろう。
本当にそうか?
顔面以外のすべてをパッケージングして投稿できるような状態にまで洗練できている場合と比べた逸失利益のことを考えなければ、活字のみに人格表現を依らしめ、ルッキズムから自由になることはできるかもしれない。しかしながら、おれ(たち)はしばしば、人の打つ活字の文体に、語彙に、あるいはそのような用語で表現できないにせよ、暗黙のうちには認識している特徴量に、話者の年齢、性別、知性、教養、生まれ持ってきたバッググラウンドに至るまでを見出すものだし(君も今それをやっているんじゃないか?)、勝手に好意を抱いたり距離を取ったりする──ファーストインプレッションの段階で。それに得てしてそういうものは、顔が隠れる程度では除ききれないどころか、むしろ活字という過程を通じて強く露見するようにも思われる。
SNSが、伝達範囲や速度、人間関係の深まりやすさのようなパラメータのいくつかを書き換えた人間社会の再展開である以上、他人という地獄は宿命として存在する。私はそれと闘争する気力はすでになく、どうやってうまく乗りこなすか、そちらの方を考えるようにはなった。そのうえで頼りになるのはルッキズムだ。人間の好悪のパターンは、ほとんど生得的なものとして、あるいは後天的であるにしても大体は共通の過程を通って形成されているのではないか、そう考えるくらいには単純なもので、それを理解することもかなり容易だと、年を取るごとに思うようになった。だから、よく吟味されたかわいいアイコンは──少なくともTwitter社会においては、距離感を詰める第一歩として、あるいは私のバックグラウンドをいくらか隠蔽する仮面として、ある程度有効に機能し続けているとも思っている。