二千三百五十五年

"Making peace to build our future, Strong, united, working 'till we fall."

ガイガンティック・ツイート: 君主論第25章【2023-08-11】

昔話を書く。

昔といってもさほどではなく、まだツイッターにモーメント機能があってスペースが無かったくらいの昔、まだツイッターを始めてすぐの私にペダントリーばかりあって自制心が無かったくらいの数年昔の話でしかないのだけれど、日に日に思い出せなくなっているのを自覚するし、見てもらいたい人もいるので、書くのである。

そのときは好きなフォロワーがいた。何回かハンドルネームを変えていたような記憶があるんだけれど、最後のものしか覚えていない。

たぶん学生だったんだと思う。プラトンと現代フランス海軍とファイブスター物語の話をよくしていて、なんとなくスノッブな雰囲気があったので当時の良性腫瘍ちゃんは憧れてもいたんだけれど、高校生も見るタイムラインに緊縛凌辱の話を平然と流す人物でもあったので、よく考えたらろくでもないオタクでもあった。今の私とそう変わりやしない。

さて、ツイッターなんてものにハマり、思春期と青年期を繋ぐ人格形成上一番クリティカルな数年間をそこに投じるくらいには内向的であった私は、当然”最推し”のフォロワーにもあまり絡みに行けなかったので、彼と何を話したのかはあまり覚えていない。正直に言おう。好意以外の記憶はほとんどない!だが、それでも、彼が繰り返しツイートし続けていたので今でも覚えているし、当時から今日に至るまでの私の自己同一性に組み込まれている一節がある。

マキャベリ、『君主論』の第25章、運命についてだ。

彼に影響されて買った岩波の文庫本は実家に置いてきてしまって手元に無いので、Wikisourceから当該部分を引っ張ってこよう。

I am not ignorant that many have been and are of the opinion that human affairs are so governed by Fortune and by God, that men cannot alter them by any prudence of theirs, and indeed have no remedy against them, and for this reason have come to think that it is not worth while to labour much about anything, but that they must leave everything to be determined by chance.

Often when I turn the matter over, I am in part inclined to agree with this opinion, which has had the readier acceptance in our own times from the great changes in things which we have seen, and every day see happen contrary to all human expectation. Nevertheless, that our free will be not wholly set aside, I think it may be the case that Fortune is the mistress of one half our actions, and yet leaves the control of the other half, or a little less, to ourselves.

And I would liken her to one of those wild torrents which, when angry, overflow the plains, sweep away trees and houses, and carry off soil from one bank to throw it down upon the other. Every one flees before them, and yields to their fury without the least power to resist. And yet, though this be their nature, it does not follow that in seasons of fair weather, men cannot, by constructing weirs and moles, take such precautions as will cause them when again in flood to pass off by some artificial channel, or at least prevent their course from being so uncontrolled and destructive. And so it is with Fortune, who displays her might where there is no organized strength to resist her, and directs her onset where she knows that there is neither barrier nor embankment to confine her.

 

人間は運命と神の為すがままであって、どれだけ賢明だろうと人がおのれの行く末を変えることはできない。抵抗の手段などありはしない。だから何をするのも全く無意味で、全てを運否天賦に委ねる他ないのだ──多くの人々がそう考えていることを、私は知っている。

私もしばしば似たようなことを考えるし、そういう意見を否定しがたいとも思っている。一度ならず大変革を目撃させられている我々にさえまったく予想もつかないような出来事が毎日のように起こるこの時代に生きているのだから、なおさらだ。だかしかし、我々の自由意志が少しでもあるかぎり!運命は愛人のようなものだ。我々の営みの半分は彼女の為すがままになるだろうが、残りの半分は──あるいは半分未満であるかもしれないけれども──我々の手に残されているはずだ。

運命は洪水のようなものだ。荒れ狂い、平原を覆い、木々も家々も洗い流して、土手をここから遠くへと投げ飛ばす氾濫。運命はそれと変わらない。誰であろうと洪水の前では逃げまどうほかに為す術もなく、土や木とともに家も我が身も流されることになる。しかしだからといって、天気の穏やかな季節に堰を作り、堤防を建て、もし濁流が押し寄せてきてもその流れを──止められないにしても──逸らすことができるように、流路を拓いておかない理由にはならない。運命についてもそれは同じだ。彼女はしばしば、備えも準備も組織されておらず、流れを遮る堰も築堤もなされていないところへその暴力を流し込むものなのだから。

 

出典: https://en.wikisource.org/wiki/The_Prince_(Hill_Thomson)/Chapter_XXV

和訳: 良性腫瘍

 

この文章は実際のところ自由意志の存在を如何する議論でさえなく、詩以上のものではない。しかもこの文章の後には、自らの力で運命を切り開こうとする人間でさえ、慎重を要する時勢においては不必要な積極性のために失敗し、かつ人間は己の本性に背を背けることが出来ないものである以上その失敗を避けることも出来ないのだ、という、達観したというか、冷笑的というか、ともかく捉えどころのない評が続く。

しかしそれでもいいと思う。半分の半分の半分しかおのれの領分が残されていなかったとて行動をやめる理由にはならず、慎重も果断も時勢に合わなければ報われないが、しかし運命には「女を扱うように」、果敢に、ときに粗暴に、激しく進んだ方がよいはずなのだとする25章の結語は、積み上げられてきた諦念を自ら冷笑し返すものであり、政治を道徳から分離して剥き出しの悪辣で記述する論を組み立てたとて、理想主義的なマチズモを捨てられなかったマキャベリの性根が現れているようにも見えるし、少なくとも私はそう解釈している。アコニト氏にも聞いてみたいところだ──これを見ているとは思えないし、ひょとしたらもう現世にはいないかもしれないとさえ思っているけれど。