二千三百五十五年

"Making peace to build our future, Strong, united, working 'till we fall."

『未来派宣言』私訳【2023-01-07】

まえがき

 1909年。
 ライト兄弟のライトフライヤー号が世界初の有人動力飛行を成功させ、ツィオルコフスキーが多段式ロケットによる宇宙旅行の可能性を理論的に示した1903年は遠い昔ではなく、のべ1500万台が生産され、世界の交通を塗り替えるとともに大量生産方式と重工業の持つ巨大な力を社会に見せつけたT型フォードが発売された1908年はまだ去年で、そうした技術革新の成果と国家の総力が塹壕の中に投じられ続け、ついには4つの帝国が崩壊することになった第一次世界大戦が始まる1914年まではあと5年しかない、1909年のことである。イタリアの詩人、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティは、ル・フィガロの紙上において未来派宣言』と題した一連の文章を発表した。これによって創始された芸術運動が未来派である。その中心をイタリアに置きつつも、国際色豊かに広がっていった未来派芸術家たちの情熱は、詩に絵画、彫刻や建築、くわえて音楽や料理など、幅広い領域で燃え上がった。

マリネッティによる詩、Parole Consonanti Vocali Numeri in Libertà、1915年

ルイージルッソロによる『車のダイナミズム』、1913年
ウンベルト・ボッチョーニによる『空間における連続性の唯一の形態』、1913年
アントニオ・サンテリアによるビルのデザイン案、1914年

 フォービズムにキュビズム、あるいはロシア・アヴァンギャルドシュルレアリスムのような同時代の諸潮流と相互に影響を与え合いつつ発展していった未来派は、神や天使、ブルジョワジーの肖像のような権威たっぷりのモチーフを写実的に描くことから出発したはずの古典美術から、美術館に小便器を展示させるに足る権威を持った抽象的な近現代美術を創始した、20世紀初頭の前衛芸術運動群の重要な要素の一つだ。そして未来派もまた、そのほかのアヴァンギャルドたちと同じように、同時代の運動から自らを際立たせる特徴を持っている。「速度の美」だ。未来派は速度の表現に心血を注いだ。彼らは幾何学的な抽象表現でスピードをとらえ、二十本の脚で疾走する馬を、まだ産声を上げたばかりの機械の運動を、戦争のきらめきと魔術的な美をキャンバスに描いた。

ジャコモ・バッラによる『繋がれた犬のダイナミズム』、1912年
ルイージルッソロによる『反乱』、1911年
ウンベルト・ボッチョーニによる『騎兵突撃』、1915年
ジーノ・セヴェリーニによる『進む装甲列車』、1915年
カルロ・カッラによる『介入主義者の示威運動』、1914年

 きな臭く思ったとしてもそれは誤りではない。多くの場合、未来派であることは熱狂的なイタリアの愛国者であることを同時に意味する。マリネッティは「世界にとっての唯一の衛生」である戦争と暴力を賛美し、若く情熱的な未来派芸術家たちの多くは第一次世界大戦の勃発に続いて塹壕に向かった。何人かはそこで目が覚めて未来派と袂を分かち、何人かは永遠に帰って来なかったが、しかしやはり、それを経てもなお戦争に幻滅することができなかったものもいた──マリネッティのように。となれば、のちに未来派がイタリアのファシスト体制と密接な関係を持ち(マリネッティは志願兵として東部戦線に向かってさえいる)、ために未来派が戦後に打ち捨てられることになったのも歴史的必然とさえ思える。しかし、我々はもはや近代以後の21世紀の人間であるから、21世紀には存在することさえ拒絶されうるイデオロギーについても、ある程度距離を取り、檻の中の獅子にするように安全に観察することができるだろう──我々が檻の中に向かおうとしない限りは。が、残念なことに、彼らの起点たる『未来派宣言』の適当な日本語訳は、少なくとも容易に発見できる形ではインターネット上に存在していない。ここに私訳の動機が生じた。
 私訳においては、1909年にフィガロ紙に掲載されたものの英訳であるThe Founding and Manifesto of Futurismを主な典拠としつつ、森鴎外による訳イタリア語による宣言を適宜参照し、各種の翻訳ツールも利用しながら、ときに本質を損ないうるほどの意訳も交えつつ、宣言の詩的で衝動的な文体を日本語に再展開することを目指した。権利的にはグレーなので透明性が求められる場では引用さえもしない方が無難だと思う。



本文


 我々は一晩中起きていた。私と友人たちの頭上には、精緻な細工を施された真鍮のドームに覆われた、モスクランプが煌めいていた。その眩しさたるや我々の魂のごとくで、真鍮に閉じ込められた電動の心臓の輝きが漏れ出ているようにも見えた。

 我々は何時間も起きていた。稠密に刺繍されたオリエンタル・ラグへと生来の怠惰を踏みつぶしつつ、論理の限界まで議論を重ね、熱狂的に書き殴っては、何連もの紙束を次々と真っ黒にしていった。

 我々の心を後押ししていたのは、計り知れない自尊心だった。何故ならそのとき、我々は孤独を感じていたからだ。孤独だ。そのときは目が冴えていて、我々は直立し、はるか深宇宙の野営地から我らを睨み下ろしてくる星々の軍勢へと対峙する、誇り高い歩哨のような孤独さを感じていたのだ。それはつまり、巨大な船の中で地獄的に燃え盛る機関へ餌をやる火夫のそれと同じ孤独であり、狂った進路をひた走る蒸気機関車の赤熱した腹の中で手探りをしながら暗闇を進む真っ黒けの妖怪と同じ孤独であり、傷ついた鳥のように市街の壁に沿ってふらついている酔っぱらいと同じ孤独である。

 突如として我々は立ち上がった。力強い騒音を聞いたのだ。外ではライトから色づいた光線を伸ばした巨大な二階建てトラムがゴロゴロ路面を鳴らしつつ往来を走っていた。それはまるで、祭りを祝っていた村々が、前触れもなく氾濫したポー川の濁流に根こそぎなぎ倒され、滝を落ち、峡谷を流れ、海に引きずり込まれていくかのようだった。

 そして静寂が深まった。しかし、古い運河がかすかな祈りの文句を囁くのを我々が聞き、青々とした緑色のひげを蓄えた古城の骨が軋む音を我々が耳にしていたとき──窓の下から、突如として飢えた自動車の咆哮が聞こえて来たのだ!

「さあ行こう!」私は言った。「友よ、進もう!共に行こう!神話の迷妄と神秘的理想はとうとう敗北した、我々はこれから目撃するのだ、ケンタウルスの誕生を、そしてすぐさま、最初の天使の飛翔をもだ!……我々は生命の門を揺るがさねばならぬ、そのかんぬきを、蝶番を試さねばならぬのだ。さあ行くぞ!あれを見ろ、この星の、まさに最初の払暁を見ろ!千年我々を覆い続けた暗黒を切り払わんと第一撃を放つ赤きつるぎ──あの太陽の煌めきに並ぶものなど、何一つ存在しやしない!」

 我々は荒い息を吐いている三匹の機械のところまで歩いて行き、火照った鉄の胸を愛撫した。私は棺桶の中の骸のように車内で体を弛緩させたが、しかし直ちにハンドルの下で──私の腹を切り裂こうとしているギロチンの刃の下で蘇生した。猛る狂気の箒は我々を我々の正気から遠くへ掃き飛ばし、急流の河床のように荒れた奥深い通りへと駆り立てる。あちらでもこちらでも病的な街灯がガラス越しに光をよこし、我々の滅び行く数学的眼なんぞ信用しないように教えてくれる。

 私は叫んだ。

「匂いだ、この匂いだけでも我々の獣には十分だ!」

 そして若いライオンのように、我々は「死」の後を追った。やつの黒い毛皮には青白い十字架がまだらにしみついていて、紫色に染まった、生き生きと脈動する広い空の下を逃げていっている。しかし我々には、その神聖な姿を雲の上に伝えに行くべき理想的な愛人もいなければ、ビザンチンリングのように我が身をねじって捧げものとするべき残酷な女王もいないのだ!しからば我々を死に駆り立てるものなど何もない、ただ一つ、この身には大きすぎる勇気の重圧から自由になりたいという願いのほかには!

 そして我々は、シャツの襟をのすアイロンのように、燃え盛るタイヤでもって家々の番犬を轢き潰しながらレースを続けた。自動車が角を曲がるたびに家畜化された死が姿を現し、奥ゆかしく前腕を差し出したかと思えば、やつはときおり身を潜め、過ぎてゆく路上の水たまりから、それも全ての水たまりから、私をビロードのような優しい目で見つめて誘惑してくる。

「さあ!知性の殻は気色が悪い、我々はこれを突き破り、歪んでいるあの突風の大口めがけ、尊厳たっぷりに熟した果実を投げ込もう!我が身をだ!我々の身体を余すところなく未知へと捧げるんだ、絶望のためではない、深く虚ろな不合理の井戸を満たすためなれば!」

 その言葉を口にして間もなく、私は自分の尻尾を噛もうと旋回する犬のような勢いで車を回転させた。すると突然、2人の自転車乗りがふらふらよろめきながら、まるで同じように説得力がありながら矛盾する2つの主張のように私に向かってきたのである。この退屈なジレンマが、私の行く手を阻んだのだ。なんてこった!ああ、くそっ!……車は一瞬止まり、くそったれ、車輪を空中に浮かせたまま側溝に転がり込んでしまった...…

 おお、母なる側溝よ、泥水で満たされた側溝よ!穢れなき工場排水よ!私は滋養にみちたヘドロをがぶ飲みした。そのときに思い起こしたのは、スーダン人の乳母の祝福された黒い乳房のことだ!私が──ずたずたになって、汚れきり、汚臭をまといながら──ひっくり返った車の下から這い出たとき、私は鉄心棒と化した赤熱した喜びが、心地よく私の心を貫いていったのを感じたんだ!

 既に釣竿片手の漁師たちや、痛風持ちの博物学者たちから成る群集が、この驚異の周りに群がっていた。彼らは辛抱強く丁寧に高いやぐらを組むと、クレーンを吊り下げ、鉄の鉤爪でもって、巨大な鮫を浜に打ち上げるみたいに私の車を吊り上げた。溝からゆっくりと引き上げられた車は、鱗のように、重量のあるセンスのいいコーチワークと、快適そうな布張りを落としていった。彼らはそれが死んだと思ったようだ。私の美しい鮫が。だが私がそっと撫でてやるだけで、それはたちまち蘇生した。そして生き返った鮫は、ヒレを力強くひねり、また全速力で走り出したのだ!

 そういうわけで我々は、顔は善き工場の泥にまみれ、金属くずと無意味な汗で夜空のようにきらめいている煤で漆喰され、傷つき、そして腕を三角巾で吊られた我々は、しかし恐れることなく、地球上の全生物に我々の志を宣言するに至ったのである。




 未来派宣言


1. これから我々の歌に現れるものは、危険への情欲であり、気勢に満ちた習慣であり、恐れを知らない勇敢さである。

2. 勇気、無謀、反逆!これらの要素が無いことには、我々の詩は成り立たない。

3. 今に至るまでの文学は陰気なもので、静けさや、恍惚、惰眠を称えていた。ならば我々は文学において、攻撃的な行動、熱狂的な不眠、駆け足の歩幅、死への跳躍、鉄拳、そして平手打ちの一撃を賛美しようではないか。

4. 我々は世界に新しい美が出現したことを宣言する。速度の美だ!あのレーシングカーを見ろ。ボンネットには蛇がいる、配管だ、大蛇のごとき巨大なパイプが張り巡らされ、爆発するかのように呼吸している──榴散弾のように駆け回りながら咆哮している自動車は、サモトラケのニケより美しい!

5. 己が精神の先鋭を駆り立て惑星を周航する操舵手が残す航跡は、この星の太陽周回軌道と平行になっている。これは讃美歌に値する!

6. 詩人は、彼の詩の根源的な部分が持つ熱狂的な勢いを加速させるため、熱情と華麗さと惜しみなさをもって自らを使い潰さなければならない。

7. 闘争の外に美は存在しない。攻撃的でない作品は傑作となりえない。詩は未知の力に対する暴力的な攻撃でなければならず、かつそれを人間の前に屈服させるものでなければならない!

8. 我々は今、歴史の断崖に立っている!神秘的な不可能への扉を蹴破るとき、なぜ後ろを見る必要があるのか?時間も空間も昨日に死んだ!我々は既に絶対の中に生きている!何故ならまさに我々が、永遠で普遍的な速度を創造したからだ!

9. 我々はこれから礼賛していくだろう。この世界で唯一の衛生であるところの戦争を。そして軍国主義を、愛国主義を、反体制派の破壊行為を、それのために死ぬに足る、あるいは殺すに足る美しい思想を、くわえて女への軽蔑を。

10. 我々は美術館を、図書館を、ありとあらゆるアカデミーを破壊する。我々はモラリズム、フェミニズム、そして日和見主義と功利主義の臆病者と戦わんと欲する!

11. 我々は謳おう!労働で、歓楽で、そして暴動で興奮している大群衆を。我々は謳おう!多色で多声の、現代の都市群に徘徊する革命の潮流を。我々は謳おう!電動の月に照らされて夜ごとに情熱をたぎらせる兵器廠と造船所を、渦巻く煙を吐き出す蛇を次々喰らう貪欲な鉄道駅を、ぐねぐねと立ち上る煙によって空の雲から吊り下げられている工場を、体操選手のように川を一跨ぎにする巨大な橋を、太陽の輝きを反射するナイフの光沢を、水平線上を嗅ぎまわる冒険的な蒸気船を、金属管で頭絡された巨大な鉄の馬の蹄のごとく、車輪で線路の上を這う胸板の分厚い蒸気機関車を、滑らかに飛び回り、風の中でプロペラを旗のように揺らしては鳴らし、熱狂した群集のように歓声を上げる飛行機を!




 我々はここイタリアから、このくらくらするほど暴力的で扇動的な我らの宣言を発するのである。これによって今日、我々は未来派を創設する──教授、考古学者、観光案内業者と骨董屋によって壊疽させられたこの土地を、解放せねばならぬからして。あまりにも長い間、イタリアは巨大な"古着市場"であり続けてきた。我々は墓地のようにこの国を埋め尽くす、無数の美術館を排除するのだ。

 博物館、それに墓地!……この二つは同一のものだ、確かに同じものだ、無数の死体を隣り合わせて乱雑に並べるその不吉さにおいて同じものなのだ。美術館とはつまり、かつて嫌っていた相手や、あるいは全く知りもしない存在と隣り合わせで永遠に寝かされる公共宿舎のことだ。美術館とはすなわち、同じ壁を共有する画家たち、彫刻家たちが、色彩と線描の技術を駆使し、お互いに激しく殺し合う不合理な屠殺場なのだ。

 毎年巡礼するくらいなら、万霊節の日に墓に参るように年に一度だけ訪れるくらいなら私も異論はない。一年に一度だけジョコンダ夫人の元を訪れ、花を供えて帰るくらいならやっていいだろう……だがしかし、我々の悲しみを、我々の脆い勇気を、我々の病的な活動への欲望を、毎日美術館を訪ねて擦り切れさせてしまう──そんなことは到底認められない。なぜ自分で自分に毒を盛る?腐り果てたいのか?

 古びた芸術に見出せるものは、自分の夢を完璧に表現しようという欲望を阻む障壁へと全身を叩きつけ続ける労苦で己を歪めてしまった芸術家の姿以外に何かあるだろうか?昔の絵画を称賛するのは、我々の感性を骨壺に流し込むのと同じことだ。活動と創造の暴力的な噴流に乗せて、どこまでも遠くに射出することもできるだろうに。あなたは己の最良の力を、この未来永劫続く無益な過去の崇拝に費やすことを願うのか?致死的なまでに疲れ果て、縮みあがり、ただ打ちのめされる以外の結末があり得ないとしても?

 実際のところ、芸術家にとって、来る日も来る日も美術館だとか、図書館だとか、アカデミー(つまり、空虚な努力の墓場、夢を磔にするゴルゴタ、頓挫した計画の登録簿のこと!)のような場所を訪れるのは、自らの才能と野心に酔いしれている若者が、いつまでも親に監視されているのと同じくらい有害なことなのだ。もしも、未来が閉ざされたのなら。賞賛すべきすばらしい過去は、死に掛けの老人や、病人、囚人にとっては慰めになりうるのかもしれないが……我々はそんなものになりたくない、過去の一部になりたいわけではない、我々、若く強靭な未来派主義者らは!

 だからやつらに来てもらおう、黒焦げた指を振っている、痛快な火付け役たちに!ほら来たぞ、それ来たぞ!さあ行くぞ、いざ行くぞ!図書館の棚には火をつけろ!運河をせき止めよう、洪水だ、美術館を川に飲ませるんだ!はは!あのすんばらしい古びたキャンバスが、色も抜かれてズタズタになり、水面を浮き沈みして流されていくさまの何と痛快なことか!さあ君もつるはしを持て、斧でも槌でも構わない、壊せ、壊せ、由緒ある町を無慈悲に壊せ!

 我々のうちの最年長者は三十歳だ。だから少なくとも我々には、ことを為すのに十年の期間が残されている。我々が四十になったときには、誰か他の、若く、力に満ちた男たちが、役に立たない無い原稿を捨てるみたいに我々をゴミ箱に突っ込むだろう。そうなれば良いんだ!彼らは、我々の後継者は、きっと遠いところから、きっとあらゆるところから、羽ばたきながら跳ねるような彼らの最初の詩の調子に合わせて我々に対峙しにやってくるだろう。肉食獣の獰猛なかぎづめを振り回し、犬のようにアカデミーのドアを嗅ぎまわって、我々の心から漏れる腐臭をかぎつけることだろう。そのとき、我々は文学の墓場に居るに違いないんだからな。

 だが我々はそこにはいない。彼らが我々をようやく見つけるのは、ある冬の夜、広々とした土地の、単調な雨に打たれて鳴っている悲し気な屋根の下でのことだ。我々はそこでしゃがみ込んでいるのだ。今日の我々の文章が発した我々のヴィジョンの飛翔がつけた炎、その僅かな残り火を燃やしている、震えている航空機の傍にしゃがみ込み、貧相な熱に手をかざして温めている我々の姿を彼らは見ることになるだろうよ。彼らは我々のまわりに殺到し、胸の内からこみ上げる軽蔑と苦悩に苦しみながら、彼らみんなが、我々の疲れを知らない大胆さに苛つかされて、我々を殺そうと焦ることになるのだ。彼らの心が我々への愛と称賛に酔っていればいるほど、彼らの殺意を駆動する憎悪は執拗なものになることだろう。強く健全な不正義が、彼らの目から放射状に飛び出すだろう。だがそもそも元来芸術とは、暴力、残虐、そして不正義以外の何物でもない。

 我々のうちの最年長者は三十歳だ。それでも我々は既に多くの宝物をばら撒いて来た。力、愛、勇気、機敏、そして生の意志の力を閉じ込めた宝物を千もだ。我々は怒りながら、注意散漫に、息を切らしながら休まずに、せっかちに世間に投げつけ続けてきた……我々を見ろ!我々はまだ団結しているぞ!我々の心臓は疲れを知らない、なぜならこれは炎で、憎悪で、そして速度によって動いているからだ!……驚いたか?そうだろう、君は自分が生きていたことさえ覚えてないんだからな!世界の頂点に立って、我々は再び星々に反抗するのだ!

 何か異議が?結構、結構!言いたいことは分かっている。承知しているとも!我々の大変すばらしい知性の誤解によれば、我々のなすこと全ては先人たちの再現か、そうでなくても過去の延長線上にあるものだという。そうかもしれない!だがもしそうだったとしても──何の問題がある?知ったことか!そんな忌々しい口答えをするやつはみんな呪ってやる!

 頭を上げろ!前を向け!

 我々はこの世界の頂点に立ち、再び星々に反旗を翻すのだ!