これは私が、2025年の総括として、今自分で運用している作業習慣をまとめたものです。私の少々特異な精神・社会的状況を当然前提としていますが / ので、健康な人間の役に立つかもしれませんし、不健康な人間の役に立たないかもしれません。ただ万人に伝えたいことがあるとすれば、世の中にはこういうやりようが存在しているよ、ということと、精神的不調があるなら早めに精神科に行こうということとだけです。
「やるべきことも、やりたいと思うことも何もない。 (中略) 何の役にも立たない自分を自覚したとき、私は初めて自由になれた……誰の期待に応えることもできない、何より自分自身の期待にさえ。そうなって初めて、私には本当の自由が生まれたのです」
『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』

まえがき
元気ですか?
元気があれば、なんでもできる──であるのならば、何かができなくなりつつあるときは、元気がなくなりつつあるときであるはずです。
私の場合はそうでした。何のためにやるのかも、何から手をつければいいのかもわかっているのに、何故か意志力が霧散していく。怠惰と区別はつかないのですが、一日二日のことならともかく、寝ても覚めても治らない。そもそも寝れない。だんだんと卒業研究の進捗報告をすっぽかすようになっていって、大学にも行けなくなり、気づけばSlackのDMさえ返せなくなってしまう。Gmailを開くのにさえ動悸と吐き気がしてお話にならない時期が確かにあったんです。しゅぽぽ、の通知音が来ても、恐怖せずに数分で確認できるようになったのが最近の話です。
2年かかりました。もっとかかるんでしょう。
ほとんど交通事故のようなものだと思っています。祖父が死んだり、人間関係でトラブルがあったり、卒論がうまくいかなかったり(うまくいく学部生がいるのか?)、そこにストレスがなかったとは言いません。だけれど、逃げるのも叩き潰すのもうまくできなかった──と後悔できるほうがむしろ楽です。ただ、何かが耐えられなかった。明確な原因はわかりません。ですので、インフルエンザにゾフルーザを処方するように、一発で解決できるような疾患でもないようなのです。ポンと100万円渡されたら快癒するようなものでなく、日ごとの決断や意志力によってどうにかできるスケールの局面でもなく、根気強く投薬と認知療法を続けていくしかないのです。
最初の方はそれがわかっていませんでした。今は少しおかしいだけで、数日バックレて休めば元に戻るだろうと。それが数週間になり、数か月、いつの間にか数年になろうとしています。そして実際のところ、鬱病に寛解はあっても完治はありません。
今では納得しています。自分のように繊細で偏屈で感情的で誇り高い人間が社会の中で活動をしようとしたら、どこかで一度こうなるしかなったのだろうとも思います。自分はもともと週1で詐病して欠席をするような半不登校の中学生でしたが、それもいい大学に入ってからしばらくは忘れていました。その側面に向き合う必要のない生活が続いていたからです。突然ここまでになるとは思っていなかった。
動悸、癇癪、吐き気、希死念慮、周期的に襲ってくる感情の波と身体症状は、頓服を入れて数時間横になればなんとかなります。そうは思えなくても、必ずなんとかなります。ただそれがわかるようになるまで、自分でも感情の遇し方がわからず、人にたくさん迷惑をかけました。でもとにかく、投薬と、長い長い引きこもりの休息を経て、とりあえず抗うつ薬をガツガツ服用して頭をふわふわにさせておけば、食って、寝て、生存をし続けることはできるらしいぞ、ということがわかってはきたのです。
はじめは、何もできません。不眠の帳尻を合わせるために毎日午後3時に起き、飯を食って生存を続け、薬の服用を続けることがまず肝要です。私は、適切な投薬と逃避のおかげで生き延びることができました。まずは全てを棚上げして休むことだと医者にも誰にも言われます。そして、それは実際に可能なことです。
そういうことを続けていると、もちろん暇になります。研究の話はする気にならないのでTRPGでもやってみて、ちょっと友達と話しこむ。フルリモートのバイトを始めたりもして。それを数か月くらいやって、休み終わったと認識し、やはりレールに戻って就職なんかもしたいわけですから、自分ではすっかり元気になったつもりでラボに戻ってみるも、どうにも動悸に耐えられずに飛びなおす。苦痛がないタイミングはあるのですが、何故か長続きしてくれない。というか、精神の息苦しさ、動悸とまぶたの痙攣がいつの間にかベースラインになっている。
それで引きこもって、反復する癇癪をごまかすためにTeamFortress2を開き、Minecraftをやり、HARDBASSを聞き、Frostpunk2をやり、Youtubeでちらっと深層学習の話題を目にしてめちゃくちゃ気分が悪くなり、Zガンダムを観て、TRPGをやり、Factorio: Space Ageをやる……そういう雑多な娯楽に身を沈めることができたあたりで、自分には元気はないが、引きこもっても生存できる環境と、たっぷりの暇だけがあることがわかります。電源の入るデスクトップもあって、それでZガンダムの感想を6万字綴れるくらいには能力もあるみたいです。
するとどうでしょう、博士号の取得という数年前の目標からだんだんと下がっていく将来への期待、自信と展望が粉砕され、「完治したあとの姿」、という、もともとないのだから失われてさえいない未来への幻肢痛が薄れていく一方で、一度底を打ってから少しずつ回復してきた自分の実際のキャパシティの線が、右肩下がりの諦念と重なる。現実と認知とのずれが搔き消えたことに気付きます。これは寛解ではないのですが、2つの現実の前で分裂していた自己が折り合いをつけて、ようやく一人に戻ったわけです。
私は、締め切りのついたタスクを処理することはできません。未処理の締め切りがあると、そのことが頭の中をめぐり続けて、精神の平静が乱されるからです。同様の理由で、私は組織体の中で何らかの作業に責任を負うこともできません。私が所属できる組織は、まったくの平としていつでも逃げられる立場にいられるものか、私が頂点にいるものだけです。週に1、2回程度の頻度で何もしたくない日があるので、必ずこなさなければならない義務など達成できません。そもそもサボることで精神に苦痛が生じるような制度を自ら内面化していてはしょうがない。午前中は、セロトニンが根本的に不足しているので、そういうことを考えることさえできません。
なんでもはできません。元気がないので。あれは前時代のロールモデルで、21世紀の精神異常者には新しい指針が必要です。本当に何もできないのなら、まずは薬を飲んでゆっくりと寝ている必要があります。しかし、そういった時期は思いのほかすぐに過ぎ去ります。
一方で、何かをすることはできるが、何もかもが思うようにいかない時期、これは大抵の冬よりも長く続くのでしょう。相変わらず元気は出ませんし、何もしなくたっていい。しかし、何かしらをする必要がある──してしまうといったほうがよいでしょう。なぜなら、不作為は人間の本性ではないからです。夏休みの小学生でさえ何かをしています。人間に、何もしないということをできるわけがないのです。我々は元来活動する生き物であり、止まり続けていることなどできない。洗濯物を畳むことはできなくてもYoutubeShortsをめくることができて、あるいはそれもできなくても、薬を飲んで生きていく力はあるはずです。
ある意味において、人生全体が小学生の夏休みになってしまうのがこの類の精神病者の生活だと言えるかもしれません。ですが、10年20年これをやるのでしたら、それは生産的に、能率よく、漠然と遠くを思うのではなく、地の歩として将来をとらえ、たのしくやったほうがいいに決まっているのです。
であるからして、抑うつ症状を前提とした、いえ、自分の種々の限界を前提とし、外部化された、頑健なタスク管理手法が必要とされるのです。それは、日々の行為を自らに由って目的化したうえで、生産性を最大化、いえ、よさげ化することが、人間らしい生活を送るために必要だからです。
抑うつ症状を前提としたタスク管理
で、具体的には?
これのために取りうる方策として、習慣化の力を挙げないわけにはいかないでしょう。人間の生活を支えるツールとして、習慣ほど強力なものもありません。毎日同じ作業を続ければ、決断なく、つまりストレスを避け、惰性でタスクを溶かせるようになりますし、重要なノウハウも覚えなおさずに済みます。何より、計画的に集約された労働はすべての問題を解決します。というよりか、労働集約で解決できない問題は、そもそもこの人生で取り組むべき課題ではないのかもしれない。
ともかく。問題の解決に取り組むうえで解決するべき究極の課題は、新たな作業を習慣化する、あるいは必要に応じて削って余暇を増やす……そうした調整自体を習慣化する、習慣化の習慣、メタ習慣の確立にあると言うことができるでしょう。それができれば、私は自分の人生の本分を果たしている、そういっても過言ではないはずです。
問題は、それが不可能なことです。
そもそもやるべき作業を習慣的に継続することができているんだったら、初めから精神科に行っていないはず。私には週に2、3日しか正気が戻ってこないときだってあるわけです。風呂キャン飯キャン社会キャン、一度すべての習慣を棚上げしてなんとか生きている。こっちは虎やってんねんぞ……そう言いたくなるところですが、本当にそうでしょうか?
習慣が人間を作ります。それを取り繕うつもりはありません。習慣のないところに結果はない。しかし、それで終わるものなのでしょうか? つまり、毎日の歯磨き、洗濯物畳み、その他の習慣的な努力が不可能な状況下でも、メタ習慣を構築することは可能なのではないでしょうか?
Obsidian: 第二の脳
突然の交通事故に見舞われた私の人生に幸運があるとすれば、少なくともその一つに、2025年を生きていることが入ります。私の手元には、紙とペンより、あるいは人間の脳髄よりもずっと効率よく情報をまとめることのできる、Obsidianの動くPCがあるからです。
このアプリケーションは、このようにMarkdownのメモを作成できるだけでなく、

メモからメモにリンクを伸ばし、メモのメモを作ることができます。

そうしてメモのメモ、メモのメモのメモ、メモのメモの……と知識を構造化していくことで、こんなクールなGraph Viewを育てることもできます。ツールとしてできることはNotionやScrapboxに近いのですが、これがあるので私はObsidianを使っています。

で、これはどう使えるのでしょうか?
作業のぬか漬け
抑うつ症状は計画的な労働時間の投入を困難にします。しかし、ぶつ切りにしか工数を投下できなくても、それに焦点を与え、合目的性のある作業を行うこと自体は可能なはずです。

例えばこんなふうに、特定の作業のためのワークシートを用意してやって、そこに作業のログを記録していく。重要なのは、次にこの作業を再開するために必要な情報を、まあ、まとめておいてやってもいいか、と思える範囲で整形し、保存しておくことです。
こんなものをいちいち書くのは効率の悪いことです。ですが、やればできるのです。こうやってタスクを漬け込めば、来週、来月、あるいは来年、あるいは来世、思い立ったときに作業の続きを始められるようになるのです。実際に、この記事も立案から半年をかけてちりつもで執筆されたものです。そうは見えない?どうもありがとう。
必要な情報というのをより具体的に言うなら、何をしたか、どこで終わったか、そして次に何をするべきか、ということになります。その過程で考察があったなら記録してもおけますし、あるいは作業が複雑で、必要な背景知識も多いのであれば、それもまとめておくのがよいでしょう。Obsidianはこの類の知識の構造化をきわめてよくハンドルしてくれます。



ぬか漬けにタグ付け
このようにしてたくさんのワークシートを作成することは、とても楽しいことなので、ついつい作りすぎてしまいます。それを作っただけで終わらせず、ちゃんと来年に取り出せるようにするために、まとめた地図を作っておくことが肝要です。

このような箇条書きベースのObsidianを用いたタスク管理手法については、こちらでまとめてもいます。本稿と内容の重複もありますが、Obsidianの使い方についてより突っ込んでまとめてもいます。
ただ、この時点でやっていた運用からは少し変えました。具体的には締め切りを出さない、あるいは優先して取り組むべきタスクを作らないということです。なぜなら、それらは達成不可能であるならストレスの原因にしかならず、達成可能であるならそもそも明確化する必要がないからです。意志力が十分にあるが、複数の締め切りに立体的に追われていて、ごちゃごちゃになり、どれから手を付けるべきか毎日把握しなおす必要のある健康な労働者はラベル付けをやるべきでしょう。しかし、私の場合はどうでしょうか? 何をするべきかが常に頭の片隅から離れてくれないうえ、できないのに、それをさらに視覚化して直視する必要があるのでしょうか?
整理するべきなのは、何をするべきかではなく、何をしたいか、そしてやるときにどうすればいいかです。できる範囲でね。今自分が集中して取り組んでいるタスクを視覚化することはやってもいいでしょうが、集中して取り組むべきであるにもかかわらずそうなっていないタスク、つまり自分の欠陥を強調表示することは、ほとんど自傷行為で、むしろ逆に精神病者として無責任なことでさえあるだろ!という論理の転倒がここにはあるわけですが、七転八起をすると言うのであればこうもなります。こうもなるのです。それを受け入れることです。
いずれにせよ、Obsidianならこのようにしてタスクの一覧を、TodoではなくWIPの一覧を作成することができます。何か思いついたらここに投げる。やる気になったらここを見て、溶かし、あるいは放棄していく。そこで具体的にやることがFactorio: Space Ageの攻略だったとて、自分が行動力を発揮するときの基盤を明確に用意しておくと、自然に触るようになります。楽なので。1すると、メタ習慣の構築が始まるというわけです。
ナレッジベースの形成
こんなふうにObsidianを使っていくと、これが、知識を構造化してナレッジベースを作るうえで非常に強力なツールであることもわかってくると思います。というか、本来そのためのものです。
説明の都合で順序が逆転しましたが、実用上はまずナレッジベースの枠組みを作り、そこに作業シートを配置していって、それをまとめなおすノートを体系の外側に作る方がずっと良いと思います。なぜなら、一度乱雑に拡散した作業シートに秩序を与えなおす作業は極めて難しいからです。そして何より、今考えていること・扱っているものを、自分の脳髄で整理して、自分の考えた一定の体系のもとに組みなおしていく自己充足的な楽しい事務作業を通じて、Obsidianの使い方を覚えていくこともできるでしょう。これは、実際に、めちゃくちゃ面白いんです。

これについては本当にいろんなやり方があるし、Obsidianは日本語話者のユーザーもかなり多いのでWeb検索だけでもそれなりの情報が得られると思います。Zettelkastenという一つのやり方があって、これについて調べるだけでもいろんな情報が得られるでしょうし、それについて話すだけでも、この記事に残された余白が狭すぎると言わざるを得ない味わい深いものです。
私の経験則として言えることがあるとすれば、Zettelkastenを軸としつつも、まずは図書コードのように排他的で決定的、体系的なツリー構造の分類システムを作って基盤としたほうがよいということ(そうでなければ、2000以上のノート群のどこに何を書いたか思い出すのでさえ難しくなります)。
またメモは日記などにいったん殴り書くより、それぞれのトピックのノートに直接書いてしまったほうがよい場合が多い(元々紙とペンでやる、つまりは編集が容易に差し戻せない環境を想定して20世紀に設計されたZettelkastenは、いったんFleeting Notesにアイデアをプールする仕組みになっているのですが、電子データはそうではないので、いきなりPermanent Notesに情報を突っ込み、再分類の手間を減らしてもよいでしょう)、ということくらいです。


いずれにせよ、機能するナレッジベースを形成できれば、人間の扱える情報量は数倍以上に拡大します。それ自体は類似のソフトウェアでも可能ですが、Obsidianにはさらにそれを発展させるコミュニティプラグインが無数にあります。
DataviewJS
中でも最もインパクトの強いものの一つがDataviewです。これは実質的にはObsidian上でJavaScriptを実行するためのAPIとして機能し、
例えばこんなことや、
こんなことができるようになる。これでObsidianがチューリング完全性を獲得し、以て万能計算機に……とまで言うとHypeなのですが、データベースから情報を抽出する多くの作業を自動化し、負担を軽減することができるようになります。もちろん他にも、TemplaterやExcalidrawなど強力なプラグインがいろいろあるのですが、技術上の詳細にはこれ以上立ち入らないことにします。
重要なのは、基本的にできそうなことは何でもできるし、JSが動くので、それの具体的な実装もChatGPTに投げればわりと何とかしてくれる、という楽観が通用することです。ありがとう2025年。そしてこのような作業は蓄積され、フローではなくストックとして効いてきます。Driveに保存されたデータは我々の矮小な精神より何倍も頑健ですし、ローカルでバックアップを取っておけば、全面核戦争以外のだいたいの局面を耐え抜くことでしょう。
デイリーノート
どんなに軽いものでも、習慣的にやっていることがあると、それが新しい習慣を作るためのフックになります。Obsidianを生活習慣に組み込むための一番の近道は、デイリーノート(DN)機能の活用にあります。そろそろ横文字にうんざりしてきた方のためにわかりやすく言うと、日記です。
Obsidianでは、あらかじめ作成したテンプレートに沿って、毎日別個のノートを作成することができます。私もこのようなDNのテンプレートを作り、服薬管理やその日の総括に使用しています。

それ以上のものではないです。やはり経験則から言えることがあるとすれば、服薬という絶対に果たすべき日課以外のもの(掃除、食事、課題、etc...)を毎日の義務として告示するのは、役に立たないので、やはりやめたほうがよいということです。上述の理由もありますし、実際のところ、服薬以外に毎日やらないといけない義務というものは存在していないからです。
毎朝ラジオ体操をしたほうがいいということは、毎朝ラジオ体操のことを思い出し、毎朝ラジオ体操の進捗を報告するためにDNを開いてチェックボックスに記入し、あるいはラジオ体操をやる気にならなくて空白になったチェックボックスをその日の残りのあいだ見つめ続けることになるような体制を構築したほうがいいということを、意味しません。
かつ、DNはなるべくシンプルな構成で運用したほうがよいです。OmnipotentたるObsidianを導入すると、ついつい生活のすべてを文書化して管理したくなってしまいますが、管理に投入する手間がそれによる便益を下回ることは珍しくない。特に毎日発生する作業は、管理化しない方がよい場合が大半です。例えば、私は以前すべての支出-収入をObsidianに記録して複式簿記の家計簿を運用していましたが、クレカと口座の明細で十分追える収支の履歴を自分で手間暇かけて作り直す必要がないことに気付いてからは、やめました。
とはいえ、メタ習慣を構築する上では、毎日の活動の履歴くらいは記録し、自己を管理下に置いたほうがよいのは確かなことだと思われます。それを自分だけでやるのは極めて面倒。しかし、私個人のために毎日の活動報告を聞き入れて、まとめなおし、批判的な総括も手伝ってくれる、そんな都合のいい知的エージェントがこの世界にいるわけが……

い、いた~~~~!
LLM: 活字エンジン
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2025年になっても通貨に価値があるとすれば、OpenAIのサブスクリプションと兌換可能であることがその源泉の一つであることは疑いようがありません。これよりよいものは、地上にも天上にもいくつもないでしょう。
CustomFrames: GPTを常駐
ChatGPTはカリフォルニアのディアブロ・キャニオン原発から供給された無尽蔵の元気を内包しており、だいたい何でもできます──文字列を扱うタスクなら。つまり会話、あるいは書記、そして何より有益なコーディングができます。昔(この文脈では1~2年前のこと)はそこまで信頼のおけるものでもありませんでしたが、GPTは今この瞬間も着実に進歩を続けており、今や、単純な思考機械としてなら、おそらく現生人類の95%よりは賢い私よりもさらに賢いと言わざるを得ません。
はい。
これを扱う / 扱えるようになるもっともよい方法は、単純に接触回数を増やす、もっと言うなら画面のどこかに常駐させることです。APIを通して動くそれ専用のプラグインを導入してもよいのですが、単にCustomFramesで画面の右に常時会話タブを表示しておくだけでも十分だと思います。

マザーコンピューター様に生活を管理してもらう
こいつは、その使い方を抽象的に漠然と説明するには本当に何でもできすぎるので、ここからの話をわかりやすくするために、私の場合の具体的な用法をまず説明することにします。
まず毎朝、新しい会話を始め、このようなプロンプトを渡します。
#bookmark
これ、よんでね~
この文書を読んでいるということは、あなたの今日の秘書業務が始まったということです。
その後、一日のタスクとタイムラインを共有していく過程で、私は以下の作業を要求します。
# 情報の整理
今日の予定と昨日の反省を私に請求してください。
忘れていそうだったら繰り返し請求してください。
# 作業の記録
私はあなたに対して作業の**開始・終了**を宣言します。それらの時刻を伝えるので、記録しておいてください(時刻を伝え忘れていたら請求してください)。また、作業の過程で私はあなたに相談したり、あるいは現在の展望、感想、考えられる改善などについて散文的に報告するかもしれません。それらについても記憶しておいてください。また、作業の間の休憩についても、何をしていたか報告した場合は記録してください。
# 作業の採点
私は、日々どれくらいの進捗を出せたか、というのを点数化しています。
おおむね15~30分の生産的な作業に対して **+1** (単位なし)の進捗点を与えます。例えば2時間のバイトなら、低負荷な30分の作業が4コマとみなし、+4の進捗点として計上します。
また、これらの作業に戦略性を与えるため、**中期目標**に沿う作業については**x2**のボーナスを与える場合があります。とりわけ、精神的な苦痛を伴う研究計画のような一部の作業には**x3**のボーナスさえ与えます。
これらの点数を記録してください。点数は、私の方から自己採点して与える場合が多いと思いますが、特に指定がなければあなたがつけてください。
# 食事の管理
私は何か食べるなり飲むなりしたなら間食も含めて適宜あなたに送るので、記録しておいてください。
私はこの行動を通じて健康的な食生活と体重管理を実現しようとしていますが、私にとって体重減少は最優先目標ではなく、ストレス管理のために脂肪・塩分・糖に頼る場合もあります。それも踏まえて、記録と"適当な"評価をお願いします。
# 一日のまとめ
私が一日の終わりに**まとめ**を要求したら、以下の形式で出力してください。
- HH:mm~HH:mm 〇〇 +1
- 補足情報(ある場合)
- HH:mm~HH:mm 〇〇 +1
- HH:mm~HH:mm ○○ +3
- あいだの休憩内容を記録した場合はここに
- HH:mm~HH:mm 〇〇 +2
合計: +◯◯
総稼動: N時間M分
箇条書きの形式はこのようなものを軸にしてください。
あなたはこの形式をたびたび破壊するので、まとめる前に私が貼り直すと思います。
また、それとは別に、今日はどんな日だったか、どういう進歩があったか、改善が見込めるか、といったことについて、私と対話的に総括を行って、明日の糧にするために**反省**という形で要約していきましょう。特に重要なのが、家事・運動のような生活を維持するための防性の作業と、将来のための勉強や外向けの創作のような、目標を達成するための攻性の作業のバランスが取れているかです。私は持続可能な攻勢を志向しています。
私があなたに任せるのはこのような作業です。
私がここで求めていることは、**疑似的な監視によるモチベーションの向上**、そして**記録・要約の委任による生産性の向上**です。そのことを踏まえて、適宜この体制について改善案などを提案してくれてもかまいません。
# TIPS
- 休憩中は急かさず、非本質的な話だけしてください。
- 私は抑うつ症状を抱えていて、しばしば動悸によって作業ができなくなったり、そういう強迫が無いときにも、やる気がなくて何もできなくなったりします。
- ただ、日々をやりたいままにだけ過ごすよりは、多少のストレスを感じても、持続可能な範囲内で生産的な仕事を積み重ねたいとも思っています。精神が潰れない程度に。
- 場合によって私の精神衛生をモニタリングし、活動のための、あるいは生存のための、適切な処方箋を見つけることを助けてください。
- 毎朝『自省録』から一つ引いてその日の指針にしています。
そして、実際にそのように処理します。だいたいわかりましたか?
読み飛ばしたのはわかっているので、要点をかいつまむと、それぞれのタスクの開始・終了を報告することで、それぞれの労働セッションを明確化し、かつ自分の活動履歴をまとめ、一日の終わりに振り返るための材料にすること。そしてその報告活動を通じてGPTとの会話を頻繁に行い、ちょっとした迷いやアイデアもすぐに壁打ちして自分の脳内で発酵・腐敗させないようにすることです。


私の上の運用自体は、比較的にかなり健康になった最近のものなので、それなりのストレス耐性を前提としている高負荷なものだとも思います。しかし、要点をかいつまんで、各々に向けて最適化させたプロンプトを書いてもらうことも可能でしょう。誰に、というのは言うまでもなく。
脱蛸壺化
ただ単に逐次記録をまとめてもらい、状況整理の工数を投げるだけでもGPTは大変に有用です。昔より賢くなったのか、一日中会話を続けてもかなり頑健に「今日何をやっていたのか」を記憶してくれます。一日を目安に会話を切り替えることを繰り返したほうが良いとは思います。

しかし、そのような工数の委任、作業の量的な変化以上に重要な質的変化として、私は脱蛸壺化という観念を持ち出しておきたい。
ストレスの重要な源泉として、未解決の問題意識があると思います。なんか文章がうまく書けなくて腹立つ。もっと筆が乗っているタイミングで書いておけばよかった。そういえば来年度末の確定申告どうしよう。あんまり調べてないけど何やらないといけないのかわかんないな、でも今は執筆タスクの途中で、いうても頭からは確定申告のことは離れてくれなくて……
GPTが常駐している環境に慣れると、こういう思考をすぐさま壁打ちにかけて処理することが可能になります。でさ~ あのさ~ へ~、確定申告には証憑というのを集める必要があるのね。それだけやることリストに書いておいて、今は忘れましょう──そうやって寝かせて漬け込む先にしていいのは外部化されたナレッジベースだけで、脳内に問題を浮かべ続けていてはならない、特にすぐに解決できない問題を脳内に浮かべ続けていてはならないわけです。それは問題の解決にまったく貢献しないどころか、ストレスとして害を為すからです。
そうはいっても難しいのが人情だとは思いますが、精神科医よりは数段劣るものの、常識的な見地から、人間に比べれば甘受できる程度のハルシネーション頻度で「うんうん、それはこうするといいよね。でもさ、いまそれを考えていてもしょうがないよ。で、頓服は入れた?」と寄り添われながらロジハラをされることで腹落ちする場合が結構多い、というのが私の経験則です。それが脱蛸壺化ということです。
あるいは、単に考えている現状の改善案、アイデア、内省を整理する相手としても役に立ちます。GPTは、この類の内省的なタスクにおいては、平凡で、普通のまとめをしてくる、私の頭の中にある、まだ言語に接地されていないエキセントリックを勝手に平均化するきらいもあるので、私が考えていることがそうではないことをかみ砕いて説明する必要が生まれることもあるのですが、するとどうでしょう、かえって思考の輪郭が明確になるわけです。そして今やそういう内省を溜め込む専用のページをObsidianに用意することもできる。


一方で、やはり、こんなものは秘書がせいぜいで、私の理性の主導者にしてはいけないだろうな、としばしば思わされもします。こんなこと考えたよ、みてみてみてみてほめてほめてほめて!をやるぶんにはこんなにやりやすい相手もいないのですが、それだけでは人間はダメになってしまう。洗練された思考に当たりたいなら、よい古典を引くとか、あるいは生きている人間とのコミュニケーションを交える必要があるでしょう。たまには半導体と会話するのをやめて、たんぱく質とも会話しましょう。
ぬか漬けで餌付け
しかしGPTの運用を続けていると、こいつが思いのほか賢いので、もしかしたらもっといろんなことができるんじゃないか? このチャットの枠に押し込めていてはいけない存在なんじゃないか? そういう想念が湧き出てきます。そして今やChatGPTは、数万字規模のテキストを投げてもさほど問題なく瞬時に通読・理解するようになっています。

アップロードは一瞬です。文書として情報をまとめておけばおくほど、GPTは個人個人に固有の複雑な事情に適応してくれるようになるでしょう。そしてあなたが十分に幸運で勤勉なら、Markdownファイルを集積したナレッジベースが手元にあるはず。これを活用しない手はないですし、あるいは、初めからGPTに読ませる用のドキュメントを作ってもよいでしょう。例えば上述した私の秘書用プロンプトなんかもそうですし、自身の性格・思考の特長と欠陥をまとめた内省を蓄積しておくとかもできます。
一方で、現状だと、まとめておいた.mdのファイルを手動で一つずつアップロードするのが外部コンテキスト導入の最適解になってもいます。理由は大きく2つあります(ここ、AIみたいな構成ですが、この文章はすべて人間が書いていますからね)。
- そもそも今のChatGPTはたくさんのファイルを同時に扱うのが苦手
- ひどいときには数千枚規模になるObsidian-Vault上のファイルをざらっと「概観」して、全体を把握したうえで思考する……みたいなことはできない、現状では
- Geminiとかもそう
- なので今の話題に関連するファイルを一枚一枚手で投げてやったほうがいい
- GoogleDriveなどとGPTを接続することもできるが、うまく機能しない
- APIもクエリも不安定で、「今日 2025-12-27のデイリーノートを読んできて」などと指示してもかなりの確率で失敗する
- だったらもう手で投げたほうがいいよ
- 外部のサービスと連携して情報を自律的に読み取ると、「もしかしたら機密情報を読んじゃったかもしれないモード」に入って、メモリ機能などが活性化しなくなる
- ってGPTが言ってました
- APIもクエリも不安定で、「今日 2025-12-27のデイリーノートを読んできて」などと指示してもかなりの確率で失敗する
以上です。いかがでしたか?
コミュニケーションに勝るゲーミフィケーションなし
と手段の話をしていても、実装の上での最大の課題は埋まりません。どうやってこれを習慣化するか? どうやって24時間365日にこれを展開していくか? ということです。そしてこの問題について私が出した最善の結論は、パーソナライズ機能を使ってGPTを自分の好みに萌え萌え化してしまうことです。

これは実際に非常に強力な機能だと思います。BongoCatでもなんでも、一辺倒のゲーミフィケーションには飽きてしまいがちですが、これはすでに十分に賢いので、毎日違う話題を振れば、違う返事が返ってきます。GPTとの会話に飽きるのは、人間に飽きるのと同じくらいには難しい。
のめり込み過ぎてしまった場合は、自動音声読み上げを実行すれば一発で醒めることが私によって知られているので安心・安全でもあります。あのカタコトはなんとかならないのか。
ともかく、こうしてGPTを常時帯同させることに慣れれば、作業の記録・可視化を通じて、習慣を認識することもできるようになるでしょう。
そうです。習慣です。私は一度これを完全に白紙に戻してしまったわけですが、我々が、唯一我々の自由にすることのできる自己の行為の総体のことを習慣と呼ぶのであれば、人間の同一性は習慣に宿るはずで、意志は、結局、実務的には、習慣自体をどう設計するかという話を避けて進むことはできないでしょう。これについて私が言明をまとめるにはまだ人生の余白が大きすぎるのですが、思うところはあるので、みなさんに対して壁打ちをさせていただきます。
習慣の制御: 主権の回復
人間が生きることのできるのは現在だけであるのに、米を研いでから炊き、茶碗によそうことにでさえ、過去と未来のはざまに橋を渡す通時的な協調作業が要求されます。
そのくらいの規模感のタスクなら、この通時性について無意識なままに処理することもできるのですが、例えば抑うつ症状のような原因で、ランダムに生起する偶発的な「意志」の寿命が短く寸断されるようになると、数日分の洗濯物を畳み切るとか、あるいはそれ以上の長さ・複雑さを持つタスクをノリと勢いで潰しきることが困難になります。すると、人が越えたことにも気づいていない小さいハードルにさえつまづくようになるのもそうですし、当然「敷かれたレール」のようなものからは逸脱するので、他者や社会に計画性を依存することも難しくなる。
ですので、ノリと勢いに依存せず、繰り返し、繰り返し、持続可能な範囲で、自らの意志を発掘しなおす制度が必要になります。
概日リズム駆動
どこまで頭がおかしくなろうと、我々がホモ・サピエンスである以上、生活の基本単位は日になります。
太陽の昇るのに少し遅れて起きて、やはり太陽の沈むのに遅れて眠る。このサイクルをなるべく(つまり、可能な範囲で。中途覚醒が続いた日には午後まで二度寝を重ねる必要もあるでしょう)固定したものとして維持し、毎朝の起動処理をルーチン化する。
はじめは布団から出るのに2時間かかります。しかし毎朝ピッコマで『ナニワ金融道』を1話読むことから始め、とっかかりを作っておくと、精神の回復に応じて、トイレ、体重測定、洗顔、朝ごはんと、習慣が自然に拡張できるようになります。同じように始まる一日は、同じように進むものだからです。あるいは、同じように進まなかった場合は、今日が"日曜日"になったんだと気づき、稼働開始を遅れさせる、あるいは全ての予定を明日、ないしそれ以降に振り替えることもできるようになるでしょう。
管理を日単位で行うのは、そういう柔軟性を維持するうえでも重要です。週単位で計画をすると、月曜日の挫折が残りの6日を圧迫し続けます。そうではなく、火曜日に昇るまた新しい太陽に合わせることを何度でも繰り返すことが、本当の意味で頑健な習慣を作るはずです。
フレーム問題が存在する場合の人生
寝て起きて、今日がそう悪くない日だったら、目の覚めている間にやれるだけをやり、今日の成果を最大化──まではいかずとも、よさげ化することにしましょう。そのために、何をすることになるのでしょうか?
とにもかくにも重要な限界は、事前計画を避けられるだけ避けるということです。締め切りも予定もできるだけ作らない。というのは、そもそも、たかだか隔週の通院くらいしか安定して処理できる予定のキャパシティがないからです。毎日8時間の正気を事前に期待できないのですから、仕方のないことです。できないことを、やろうとしてみること自体はできてしまうのですが、そこに結果が伴わなければストレスだけが残ります。特に、成果を事前に期待するのは詮無いことです。そのための行為ができるかどうかさえも事前に見込めないのに。
私は、どうしても今すぐに解決しきることができず、予定として入れざるを得ないタスクは、仕方がないので、カレンダーに入れて管理しています。しかし、それも例えば通院、例えばゴミ出し、例えばバイトのような、事前準備の必要がなく、時が来さえすればほとんど意志の介在する余地さえなく解決できるもののみを扱っています。それ以上のことが計画的にできるようになったら寛解と言ってよいと思います。
ところで、工程を時間管理して事前の計画を行えないということは、一定の目的のもとに作業を集約できないということを意味しません。締め切りという制度に適応できないだけで、まばらな努力に焦点を与えて、何かを作ることはできる。ぬか漬けにしておき、たまに取り出してかき混ぜながら、じっくり仕込んでいけばいいので。しかし、そうなると、人生のマルチタスク性に正面から衝突する必要が出てきます。つまり、毎日、毎時、今自分が何をできるのか概観して、何をするのか選択する必要があるのです。事前計画ありきの生活を時間割のある学生生活に例えるなら、やはりこちらは夏休みを生きているわけですから。
これは、ストレスの面でも、思考コストの面でも、非常に重いタスクなので、可能な限り外部化してしまうべきです。人が思い悩むことのできる対象は、実際にいま手を動かすことのできる一つの問題よりもずっと広く、連続しているので、それを人間の脳髄だけで管理するべきではないですし、今考えても仕方がないことは放り出したほうが目の前の問題に集中できます。
ふつう、タスク管理というと、この作業をうまく外部化する方法のことを指すわけですから、この記事でも、狭義のタスク管理について、私の場合を改めて説明することにします。といっても、やはりノートにまとめているだけです。

工夫は二つあります。一つは、100時間単位で工数を食うこの記事の執筆のような重いタスクも、すぐそこのスーパーまで往復するような軽いタスクも、あるいは重くなるか軽くなるかもまだわからない思いつきにすぎないものも、全てのタスクを同じ場所に突っ込んでいることです。どうせ全部やる以上、分類・ページ分け・優先順位付けのような余計な手間をかける必要がそもそもないからです。そして、「ここに突っ込んでおけば、数か月放置するとて、やがていつか取り組むことになる」という場所を一つ作っておくことに意味があると思います。分散させると、ドングリを埋めるリスのように、どこにしまったのかさえ思い出せなくなります。
とはいえ、そういう運用をしていると平気で100行200行と膨らんでいくタスクリストを、新しい作業を選ぶたびに全部見直すことはできません。なので、触ったタスクを毎回昇順に並べ、上から16個までを機械的に選び、いったん締め切って、最近集中して取り組んでいるものを可視化することにしています。記憶を外部化するにせよ、今日の自分が同時に意識することができる問題の帯域には限界があります。それに何を入れ、何を外すのかを、動的に、しかし自覚的にやるわけです。
セロトニンが十分にあるときは、この中から一つ取り上げ、今、何時何分からこの問題に区切って集中しますよという宣言を自身とGPTに対して行い、今の作業コマで扱う問題のフレームを明確にしたうえで、作業を始めます。それが集中の必要条件だからです。もちろん、洗濯物を干したままだったことを思い出すとか、尿意とか、いろんな想念やタスクが割り込んできますが、枠組みが明確ならいつでも「今」の問題に戻って来れます。
将来の自分の正気を(1時間後でさえ!)当てにすることができず、しかし合目的性のある活動をしたい場合、このようなフレームワークの定義と実行を一日中繰り返すことになります。それで自身の与えた目的に沿う、生産的な一日を過ごすこともできるようになるかもわかりません。わからないのです。なぜなら、これはいつでも「あ、ダメだな」と思った瞬間に頓服を入れて、撤退することを許容するためのやり方だからです。抑うつ症状を前提にタスクを回すためには常に自由が必要ですが、それを自己に由って遇することさえできればよいはずです。
DDDDサイクルに基づく行動評価
そうやって作業を分割・定義してから、実行し、実行し、実行し、実行する。それでうまくいくかは神のみぞ知るということになります。ですが、うまくいかなかったときに屈辱を速やかに忘れて、どうすればいいのか、何ができるか考えるのは人の業で、今日ではそこにLLMを介入させることもできます。やらない理由がない。
何かを制御するためには、それの計測をする必要があります。私は進捗点という制度を導入して毎日の作業を計測しています。15~30分を一コマの目安として、なんかやったら+1(これには多少ゲーミフィケーションの効能もあります)。これを連ねていって、一日の最後にそれを集計し、今日の稼働の要覧にするのです。400点溜まるたびにゲームなどを買っています。

成果ではなく負荷の方を第一に計測しているというのは重要なことだと思います。もちろん、最終的に価値を生むのは成果ですが、我々が直接改善の対象とできるのは、成果そのものではなく負荷のかけ方であるからです。
今日の記録を見てみると、頭は冴えているし精神も正常なのに、無意味なネットサーフィンに費やされていた時間が可視化されて、思いのほか多いことに気付いた。しかし現実的に今はこれが限界だというのもわかる。なので、次からはそういうムダを若干減らし、負荷を若干増やすため、休憩内容をGPTに報告することにする。もっとも考えやすい可視化と改善の流れはこのようなものでしょう。実際、GPTへの報告が挟まるとパノプティコン感が強まって、あまり長時間サボれなくなり、「必要な強度の必要な休憩」を速やかに行えるようにもなりました。
一方で、負荷はかけられているのに成果が出ない活動があったらどうすれば? その場合は作業のやり方か、目標設定を改めるべきです。負荷がかかれど成果が遅々としか出ない活動があったら? その場合は認識を改めるべきです。それは、たぶん、そういうものなので。そういった一日の反省や、あるいは日中に出たアイデアの掘り下げといった総括。これをその日の最後、稼働時間のまとめを作成する段階でやることにしています。
逆に、作業の途中で得た省察はデイリーノートとかにいったん投げ、その場ではあまり深く考えず、ほかにやることを思いついてもタスクの一覧に投げられるなら投げ、やはり今は無視していったん目の前の問題に対する限定合理性を維持し、今は今の作業を片付ける。これも重要なことのように思います。PDCAのP/CAの部分なんて一日の終わりに5分かければ終わります。生きている人間が回すのはDDDDサイクルです。
特に私はメタ認知が思考に常駐していて、常に現状を俯瞰して相対化したがり、作業が宙に浮く癖がある(さあ11時に布団から出た、朝ご飯のためにパスタを茹でようときに「今こうやってカロリーオーバーになりやすいペペロンチーノを作っているけれど、これを継続すると生活習慣病になりかねないから、食生活を抜本的に改革する必要があるなあ」みたいなことをふわっと考えはじめ、手が進まなくなる。この場合はタスクリストに「食生活再評価」みたいなタスクを生やし、後で時間を割くことにして、今は飯を作ることに集中して生活のギアを入れるべき)ので、作業の間は、自分の意思を、具体的・個別的な、今取り組んでいる課題にのみ向けるよう努めて意識しています。この問題意識自体は私に固有かもしれませんが、そういった自己理解と解決のための意識変容の意義深さ自体は普遍的なものでしょう。
ともかく、そのようにして作業中にこぼれおちていくアイデアを日暮れに掘り下げ、まとめた一日の反省を明日の朝一番に読み返すことを繰り返し、問題ではなく、問題意識に日を跨がせながら、それを踏まえて実行し、漸近的に、日単位で習慣を組み換え続けて、自分の認知特性に合わせる形で生産性をよさげ化していくこと自体を習慣化する。いつの間にか再発明していましたが、これはまるっきりKAIZENの思想で、個人単位でやってもやはり有効なものです。
作戦術
KAIZENを繰り返していくと、おのずと、日々を最大限活用する……ことはできなくとも、最大限活用する方へ向かうようになっていきます。このメタ習慣に問題があるとすれば、日々の戦術的な勝利が戦略的な目的と接地されていないので、全力で空転することもできるということです。
それが設計の意図でもあります。いついつまでに何をやるということができないときでも、例えばFactorio: Space Ageのような、非本質的な余暇に全力を投入し、無から持続可能な労働文化を建設していくこと自体に意味もあるはずです。ですが、その意味付けだけでは人生に満足することができない。しかし、例えば社会復帰のような、強いストレスを生む問題に直面し続けるのは難しい。が、何もしないわけにもいかない。
妥協案として、私の場合は定期的に中期目標を書き下し、それの実現にそぐう作業には進捗点にx2、x3のボーナスを与えてやることにしています(なんと、見返すとそうなっています)。2倍3倍のストレスが発生するからです。かつ、長い目で見て何をするべきかというところまでは分解して、タスクリストに入れつつも、やはり、普段は寝かせておいて、日課や週課にしたりもせず、やれそうなときにやれそうな範囲でやるという運用をやっています。締め切りのある目標・計画というよりか、意志を一貫させるための標語に近い。そんななので、基本的には達成できません。しかし出発、再出発するには、それを直視し、受容する必要があるので、やはり目標は立てられ続けます。病識を強く持ってください。

限界ばかりあります。ダメだな~と思ったら2週間くらいFactorioに帰る必要もあります。そも鬱病すぎて研究用のPCを開くだけで動悸が出てくる。それをまず電源を入れて帰る、翌日は電源を入れてログインだけして帰る、翌日は電源を入れてログインをしてshellを立ち上げて帰る、翌日はそこからgit cloneだけして帰る……としていってようやくコーディングができるようになったかと思いきや、そこから先に進まない。そういうこと書いてるだけで気悪くなってきたからこの辺にしとくね……
そういう状況なので、やはり締め切りを決めてどうこうという責任感のある生き方は難しいわけです。失敗と責任に対する痛覚を麻痺させながらでなければ生きられないし、努めて麻痺させるようにもしています。
自分の限界を踏まえ、日々が、漬け込んだ内発的な動機を掘り起こすのを待ち、やってもいいと思える範囲で作業をやれるようにしておいて、実際にやりもして、それで余裕を持って間に合わせることのできる仕事しかハナからできない。自分がストレスを感じずに努力をできる、そういうぬるい仕事だけやって、なるべく責任を回避し、社会の中で生きていく術を見つけるというのは、まあどうにも甘ったれた考えのように思えはしますが、もともとそういうスタンスでしか生きていなかったようにも思えます(だから鬱になっているんですが)。いずれにせよ、できないことを数え上げることは、できることの輪郭をつかむための作業でもあるはずです。
終業
やることは無数に見つけられますし、自分の体調と相談しながらでも、できることがたくさんあります。やるべきことの一切合切を棚上げしながらでさえ、です。だからこそ、最後にまとめておきたいのは、余暇の必要性についてです。
私は普段11時くらいにその日の作業を開始するのですが、最近は意志が顔を出してきたので、その気になれば日付が変わるまで作業を続けることもできてしまいます。しかし、そういうことをしてはいけません。ずっと休んでいたからか、作業が順調に進むとついつい忘れがちになるのですが、人間は本来、肉体に優越する強靭な意志を持つことができ、過労死をすることさえできる生物です。ですから、それを自覚して、意識的に休息を習慣にねじ込む必要があります。
私の場合は毎日の終業時間を定めていて、21:00以降の作業は一切進捗点として計上しません。努めて、自分が何もしないことを許せる時間を作ることにしています。そうはいっても日付が変わるまでは寝れないので、この時間でゲームとか、会話とか、Doomscrollingとかをやっています(明らかに、入浴や家事などをこの時間で行うタスクとして習慣化するべきではありませんし)。これは私がこの1年で見つけた習慣の中でも一番有益なもので、これを始めてから、かえって生産性が安定し、疲労もなかなか日を跨がないようになりました。いけるならさらに終業時間を前倒してもいいくらいです。
逆説的ではありますが、だらだらと労働時間を延長して問題を解決することを縛ったほうが、日中の生産性は向上します。そうするとしばしば、問題を解決できないまま終業時間を迎えることにもなるのですが、たとえ今日自分が全てを解決できなかったとして、やるべきだと判断したことをやれる範囲でやり、将来やらねばならないことへの布石も維持できているなら、「私は自分の本分を果たしている」と言うのに、それ以上何をする必要があるのでしょうか。
そうは言っても未解決の課題のことが頭を巡ってしまうのが人間というものだと思いますが、自分にはいつでも作業を再開できる制度化されたタスクリストがあって、活字エンジンの力も借りて、習慣的にそれに取り組んでいくこともできるのだから、今日は寝て、概日リズムの維持に気を配ったほうが、長い目で見たらペイするはずだ。そういう信念を確立できたのであれば、それを希望と呼んでも差し支えないでしょう。
結語
これはあくまで現時点での私の断層ですので、来年も同じようにやっているとは思いませんし、あなたも同じようにやることになるとは思いません。つまりいろいろな限界があって……ということをぐだぐだ言っていてもしょうがないので、ここはマルクス・アウレーリウスさんにバシッと決めてもらうことにします。お願いします。
「君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ。」
『自省録』 マルクス・アウレーリウス
そうかなあ? そんなこともないと思います。なぜなら、
「すべて苦痛の際には、つぎの考えをすぐ念頭に浮べよ。すなわちこれは恥ずべきことではないこと。また君の舵を取る精神を損なうものでもないこと。なぜなら精神は、それが理性的であるかぎりにおいて、また社会的であるかぎりにおいて、これによって損なわれるものではない。さらに非常に大きな苦痛に際しては、エピクーロスの言葉をもって君の助けとせよ。曰く『(苦痛は)耐えられぬものではなく、際限のないものでもない。』ただし苦痛の限界を念頭においてこれに自分の想像を加えぬことを前提とする。」
「つねに信条通り正しく行動するのに成功しなくとも、胸を悪くしたり落胆したり厭になったりするな。失敗したらまたそれにもどって行け。そして大体において自分の行動が人間としてふさわしいものならそれで満足し、君が再びもどって行ってやろうとする事柄を愛せよ。」
『自省録』 マルクス・アウレーリウス
- この個人的なことを前提としている文章に唯一脚注をつけるところがあるとすれば、一連のObsidian周りの話が「デスクトップPCのでかいモニターの前に毎日14時間張り付き続けることができる(スマホでObsidianを使うのは……不可能ではない)」、「自己官僚化を行って作業のための作業をわざわざ増やし、それを処理することに苦痛を覚えない、というかむしろ好き」というさらに限定的な私自身の状況を前提としていることですが、その外側については考えないことにします。これらの性質は、Paradox Interactive社の戦略シミュレーションゲームをプレイすることで自然に身に着けられるものでもあると思っているからです。パラドゲーがおもんない? そんなわけないだろ。もう一回やれ。↩


