二千三百五十五年

"Making peace to build our future, Strong, united, working 'till we fall."

備忘録: ロシアにおける死の征服の伝統と展望【2020-09-05】

 このページの内容は、ハーバード大学のAnya Bernstein教授によるロシア不死思想のエスノグラフィー"The Future of Immortality: Remaking Life and Death in Contemporary Russia"の読後、思考と論点の整理のために個人的に作成したものです。これはあくまでわたしが本著を再読する前に読むことを目的として作成した個人的な備忘録なので、内容の正しさを保証するつもりは一切ありません。英文読解能力の不足が本著とこの備忘録の間で内容の食い違いを発生させている可能性は否定できませんし、しません。むしろわたしは、わたしがここに書いた内容におそらく含まれているだろう幾つかの誤りを訂正できるほどトランスヒューマニズム/コスミズムに造詣が深い専門家の登場を常に待っています。あらわれて(切実)
 今日、トランスヒューマニズム*1は一般にアメリカ由来の思想として理解されていると思いますが、人間の物理的強化と不死の追及はアメリカ人の専売特許ではありません。先の世紀を通じて"西側"のイデオロギー的対抗馬となってきたロシアにも、例のごとくトランスヒューマニズムのカウンターパートが存在します。しかもその伝統は19世紀なかごろにまで遡れるほど深く、ソ連嫡流の戦闘的無神論からロシア正教に至るまで、左右様々な領域を母体とする多様な運動・哲学が並立しているのです。
 本書を通じ、ロシアにおける死の征服の伝統と、それを構成する人物たちに触れることは、これからのトランスヒューマニズムの役割を考察する、あるいはそこに参加する上で、とても意義深い体験となることでしょう。専門的な教育を受けていない人間の書く備忘録よりは示唆に富んでいることは疑いようがありません。

 以下、『生理学的集産主義(physiological collectivism)』というふうな形式で表記がなされているものは、対応する定訳が存在していない/見つからない、日本語では原文のニュアンスを正確に表現することが困難である、といった理由で日本語のみで記述することが不誠実だと思われる語句をとりあえず直訳したものです。


“Earth is the cradle of the mind, but humanity won't stay in the cradle forever.”


Konstantin Tsiolkovsky (1857 - 1935)

現代ロシアにおける時間・空間的限界の克服の試み

 19世紀後半に熱力学第二法則の発見から熱的死の概念が展開され*2、世界の空間的・時間的有限性が"科学的事実"として示されると、人類は永遠を奪われてしまった。かつては有限の人生を生きる意味を無限に続きうるもの──国家、人類、あるいは名声──に託すことができたが、そのようなことは許されなくなった。このような動揺の下で、ロシアの不死主義(immortalism)は人間の生命に意味と価値を取り戻すべく誕生した。不死主義者は、死を、受け入れる他ない自然の摂理などではなく、天然痘やポリオのように人類が克服するべき、そして克服する病の一つだとみなす。不死主義者にとって死は征服されるべき敵であり、ただの技術的課題でもあり、そこに尊厳を見出す余地などない。不死主義は、形而上学的な永遠を妄想するのではなく、死の崇拝に加担するのでもなく、ニヒリズムに堕することもせず、形而下の手段で保証された永遠の生命と永遠の繁栄、これを人類にとって唯一の価値として希求する立場だと言える。
 ロシアにおける不死主義について、誤解されるべきでない点が一つある。それは、不死主義はサイエンス・フィクションめいた遠大な目標を提示するだけの投機的思想ではなく、科学と唱道によって不死を現実に誕生させようとする実践的な活動である、という点である。そのような文脈において、不死主義はいま人間を取り巻いている諸条件を受け入れず、科学的にこれを改善することを試みる運動なのだ。ここに不死主義とトランスヒューマニズムの接点がある。この節では、ロシアン・トランスヒューマニズムによる不死の追及と、それに内在する論理について考えていく。

人体冷凍保存

 人体冷凍保存、あるいはクライオニクス(cryonics)は、死亡直後に死体を冷凍保存することで腐敗などによる損壊を避け、死と病にまつわる一切の問題が解決された遠い未来に蘇生される可能性に賭ける試みである。ある種のパスカルの賭けと言えるかもしれない。人体冷凍保存は死んだ、あるいは回避不可能な死の危機に瀕している人間を対象としているものなので、SF映画パッセンジャー』に出てくるような極めて大掛かりに時間を潰すための冷凍保存であるコールドスリープとは区別される必要がある。本著では、ユーラシア大陸で最初の人体冷凍保存会社KrioRus*3への取材を中心に、人体冷凍保存の内在する論理が考察されている。
 もともとトランスヒューマニストたちが近親者やペットを冷凍保存するために創立した企業であるKrioRusのサービスは、法的に死亡したと判断された"患者"の肉体を事前の契約に基づいてすみやかに保護し、諸々の処理をしたうえで液体窒素を用いて-196℃で冷凍保存することである。このサービスは、例え法的に死亡が宣告された状態であっても将来の蘇生の可能性を考えれば完全に死亡したとは言えないという、法とクライオニシスト(cryonicist)の間にある生死についての理解の差を利用したものとも言える。実際、KrioRusは冷凍保存されている顧客のことを患者(patient)と呼称しており、死骸(corpse)と呼ぶことは絶対にない。人体冷凍保存の技術が生と死の境界を再定義しているわけだ。
 KrioRusのサービスには全身冷凍保存と神経系のみの冷凍保存の2種類があり、後者は前者よりも安価なだけでなく、伝統的な葬儀との妥協案としてもよく利用されている。もしあなたが保守的な親族を説得できなかったとしても、神経系のみの冷凍保存なら死体の大部分はそのまま手元に残るので、身体は火葬するなり土葬するなりして好きに宗教儀礼を施し、脳は液体窒素の中で将来の復活を待つことができるのだ。しかしここで問題が生じる。神経系保存を選択した顧客は自己の本質は脳髄のみに存しているものと考えている、あるいは少なくとも神経さえ保存しておけば将来の蘇生のために十分であると考えているわけだ。だが、その発想は正しいのか?肉体は主たる脳に付随する従でしかなく、切り捨て可能なものである──この発想の正当性を保証するものは今のところ想像力の外側には存在していない。現に、KrioRusの保存している"患者"のうち、半数近くが神経系のみの保存ではなく全身冷凍保存を選択している。神経系のみでも将来の復活に十分であると考えるなら、この判断に合理性はない。
 これは本著の中で何度も繰り返されるテーマだが、"人間"を技術的に死から解放する、あるいは"人間"を蘇生するという不死主義のテーゼには、そもそも"人間"とは何で、どのような物質的・肉体的条件と関係している/あるいは独立しているのか、そもそも"人間"は存在しているのかという問いかけが不可避につきまとう。"人間"の不死を現実の問題として考えるなら、これらの問題は形而上学的な視点からではなく自然科学の方法によって理解され、解決されなければならない。
 人体冷凍保存は宗教的にも攻撃されている。攻撃者はロシア正教会とその信徒たちだ。正教会は──もっぱら批判者として登場するのだが、ロシア・トランスヒューマニズムの潮流を考えるうえで無視できないプレイヤーの一人である。KrioRusの冷凍庫はモスクワ郊外にあるのだが、地元住民がKrioRusに、保存している"死体"を宗教的に正しい方法で埋葬するよう要求してきたことがあるという。彼らの伝統的な正教理解によれば、人間が死亡したとき、その魂は数十日で肉体から離れる。なので、もし死体を保存して22世紀か23世紀あたりに蘇生することができたとしても、そこに本来の魂が帰ってくることはない。それどころか、空っぽになっている肉体に悪霊が入り込んでゾンビか何かとして突如蘇り、自分たちを襲ってくるかもしれない!この神学的批判が神学的に妥当なのかどうかは私には判断できないのでそれは一旦保留するとして、興味深いのは、唯物論の立場からでも似たような問題提起を行うことが可能なことだ。人体冷凍保存の概念は、人間の意識は物質的肉体が起こす現象であるという観念に基づいている(そうでなければ肉体を保存する意味がない)。つまり、キリスト教がその存在を仮定する魂のような、肉体とは無関係に持続する不変の実在を想定しない──物心二元論を否定する立場をとるわけだ。が、そのように考えるのならば、もし数百年のあいだ冷凍保存されていた人間を蘇生した場合、例えそこに物質的連続性があるのは明らかでも、精神的連続性があるのかは明らかではないことになる。蘇生された人間の意識が冷凍保存の前と後で同一だという保証はどこにあるというのか?脳髄を数百年後に"再起動"したとき、何か重要なものが失われているか──あるいは、もとの人間とは全く別のゾンビのようなものが新たに生まれている可能性はないのか?このような疑問は不可避に意識の連続性の概念そのものへの問いかけを生じさせるが、ここではそこまで踏み込まないことにしておく。

意識の転送

 KrioRusによる人体冷凍保存の試みと並ぶロシアン・トランスヒューマニズム運動の一潮流として、本著では、Dmitry Itskovらによって立ち上げられたトランスヒューマニズム運動Russia 2045*4によるAvatar Projectも紹介されている。Russia 2045は民間の研究団体で、寿命延長と不死の獲得をロシアの国家理念(national idea)とするべく活動するロビイング団体としての側面も持つ。
 Russia 2045は、自らの目標を「精神・文化・倫理、そして科学技術の領域において人類をより高度な存在に啓蒙するために最適な環境を作り出す」ことであると定義している。そのために取られる手段がAvatar Projectで、これはいわゆる意識のアップロード、肉体人類からバーチャルな身体への工学的進化、"肉体は脆弱"である。Avatar Projectは段階的な計画で、2020年までにBCI*5によって操作または遠隔操作可能なアンドロイド:Body Aを制作する、2025年までに脳を移植可能なアンドロイド:Body Bを制作する、2035年までに意識を移植可能な人工の脳とそれによって制御できるアンドロイド:Body Cを制作する、2045年までに完全に非物質的な肉体、ホログラムとしての人間:Body Dを創造することを目標としている。Body Dが具体的にどのような状態を指しているのか不明瞭であることは本著内でも指摘されている。
 途中からオカルティックな領域に足を突っ込み始めている気がするのはおそらく偶然ではない。このような意識転送の試みは、物心二元論的な発想がないと成立しえない、肉体から独立した基質独立(substrate-independent)な"魂"のようなものが存在すると仮定しなければ成立しないアイデアだからだ。人体冷凍保存とは対照的に、意識の機械への"アップロード"は、意識の物質に対する独立性を前提としている*6。こう、魂がグイっと素手で掴めてコンピュータにガッとねじ込めるようなモノとして存在するのなら何も問題はないし、実際Body Dの実現にはそういう工学的操作が可能な、"精神物質"とでも呼ぶべきものの実在が必要とされるのだが、そのようなものの実在は確認されていない。魂の有無についての不毛な議論に人類がどれだけの時間を費やしてきたかはここで説明する必要はないと思う。もし、"わたし"が蛋白質の中でしか成立しえない、つまり基質独立でない、物質に対して独立していないものだったならどうだろうか?その場合、"わたし"をシリコン製のより優れたボディに移し替えることはもちろん、肉体を放棄してバーチャルな存在になることなど不可能なのだから、"わたし"は容易に朽ち果てる肉の牢獄とどうにか付き合っていくしかなくなる。その場合でも、"わたし"の言動などのデータをもとに、私に限りなく近い言動をとるAIを作成し、"わたし"の死後も私をシミュレートし続ける不死身のAIを作ることは可能かもしれないが、それは"わたし"が不死性を獲得することとはだいぶ違うし、区別されなければならない。ちなみにそのような発想はデジタル・イモータリティ(digital immortality)と呼ばれる。話を戻そう。上述したように、Avatar Projectはある程度スピリチュアルなものを前提とするわけだが、それはRussia 2045の設立者のItskovが東洋思想、とりわけチベット仏教から影響を受けていることと無関係ではないだろう。ダライ・ラマ14世Avatar Projectを支持している。
 なお、Avatar Projectも正教会によって批判されている。ロシア正教会のスポークスマンだったVsevolod Chaplinは、このような肉体の機械化は人間性の根源を脅かすものであり、同性愛のような"西洋由来の脅威"の一部で、ロシアの国家理念および道徳的価値を損なうものであるものであるとしている。さらに、彼ら機械化人間(human bio-robots)は、神の被造物たる人間(people created by God)と戦おうとしているとさえ主張し、このようなイデオロギーがロシアの国家理念に入り込むことを許してはならないと弁じた。正教の人体機械化への抵抗心と肉体重視には興味深いものがあり、これは19世紀末ロシアの司書ニコライ・フョードロフから始まった、正教由来でありながら極めて唯物的な性格を持つユートピア思想の宇宙主義(cosmism)にも受け継がれている。

宇宙主義

 宇宙主義、あるいははコスミズムは、19世紀末ロシアの司書ニコライ・フョードロフの思索を源流とする、正教由来のトランスヒューマニズム的思想の一潮流であると表現できる。というのも、"宇宙主義"という語はフョードロフ、ツィオルコフスキー、ヴェルナツキーら20世紀初頭ロシアの科学者・哲学者らに見られた科学・宇宙志向のユートピア思想をまとめて評価するために1970年代の学者たちが後付けした造語で、フョードロフは自身を"宇宙主義者"だと呼んだことはない。現代の"宇宙主義者"についても、「宇宙主義という特定の思想の信奉者」というより「フョードロフ思想にきわめて強い影響を受けた人、フョードロフの思想的追従者」というような表現をした方が正確だと思われる。*7フョードロフの遺したテキスト群の難解さと抽象性も、宇宙主義の漠然性の原因のひとつだ。宇宙主義者の間でも明確な合意が存在していない問題も多いのだ。くわえて、多方面にわたったフョードロフの思索には必ずしもトランスヒューマニズムの内側に収まらないものもある。
 宇宙主義の伝統自体も不断に受け継がれてきたわけではなく、その異端性ゆえに正教会から、宗教性ゆえにボリシェヴィキから批判されてきた宇宙主義は一度ほとんど忘れ去られかけており、60~70年代にソ連でも起きたスピリチュアリズムの流行・宗教的リバイバル*8のときに"再発見"されて今に至ると言った方がおそらく正しい。
 それでも、宇宙主義がロシアン・トランスヒューマニズムに大きな影響を与え、その独自性に貢献していることは明らかである。本著ではトランスヒューマニズム及び不死主義の観点から重要な部分を紹介するにとどまっているが、フョードロフの考察した対象は幅広い。その中でも重要な目標を3つ挙げるとするなら、それは「不死の獲得」と「祖先復活」と「星間植民」になる。これらは密接に関係しており、どれかが独立することはない。
 宇宙主義者はまず死を拒絶する。宇宙主義者にとって死は全ての価値を奪い去るもので、そこにいかなる価値も見出されない。人間の価値は死によって有限性の内側に閉じ込められることで破壊されるのであり、死によって価値が生まれるかのような主張は宇宙主義と根本的に相容れない。フョードロフは、死に価値を見出す思想を"死の崇拝"と呼び、キリスト教における死の崇拝は初期キリスト教に紛れ込んだ異教の残滓だとして拒否した。
 そして宇宙主義者が死の無価値を主張するのは、今生きている人間に対してのみではない。宇宙主義者は人類が始まって以来のすべての死者を復活させることを真剣な目標としている。われわれの先駆者、われわれの祖先たちを死という暗闇の中にいつまでも眠らせ続けているわけにはいかない。死の不道徳性と永遠の必要性を主張するのに、すでに死んでいる人間を視野に入れないのでは一貫性が無いからだ。フョードロフはこれを"負債"とも例える。つまり、どんな人間も親から生命を与えられたのだから、親に生命を与え返すことでその借りを返さなければならない、というわけだ。フョードロフの思想にはこういった素朴な祖先崇拝と血縁"的"関係の称揚がしばしば登場する。
 しかし問題とされるのは方法論である。フョードロフは機械論的な人間観に立ち、死とは、人間を構成する部品の分解だと仮定した。そこで彼が主張したのは、死が分解であるならば、バラバラになった肉体の部品をそのまま組み立てなおせば、死者を蘇生することができるという論理である。このSF的な発想は実現可能性という点から見ればまだSFの領域を出ない発想でしかないが、宇宙主義者の唯物的あるいは機械的な世界観と、非物心二元論的な──意識は肉体に宿り、かつ肉体と分離不可能なものであるので、人間を蘇生したければ肉体を再構築しなければならないと考える──蘇生観を象徴している。
 それだけでなく、フョードロフは巻き戻し的に祖先を"生みなおしていく"ことも考えていた。人間は親から遺伝子を受け継いで子として生まれるが、逆に子のうちにある遺伝子から親を再構築し、子が親に命を与えるのだ。そうして生まれた親がその親を蘇生し、またその親が……と何代も繰り返していくことで、フョードロフは全人類の祖先を蘇生しつくすことができると考えた。
 三つ目に移ろう。宇宙主義の思想を他の不死主義から際立たせている点は、宇宙開発と死の克服が分離不可能なものとして結びついている点である。いわく、死を克服するなら宇宙を開拓しなければならない。なぜなら、不死になった全人類(さらには、そこに加わる復活した祖先たち)を地球だけで支えることはできず、そもそも永遠に地球に留まることもできない以上、われわれが永遠を求めるならわれわれは星間国家を構築しなければならないから。また、宇宙を開拓するなら死を克服しなければならない。なぜなら、宇宙は人間の生涯に対してあまりにも広大なので、我々が星間国家を構築するためには、千年単位の宇宙航海に耐えられるような存在にならなければならないから。この論理は、死の克服と宇宙開発の両方を並行して進めなければ、どちらか一方でさえ達成できないことを強調するものである。*9
 宇宙主義者の思考に則るならば、地球規模での連帯を訴えるグローバリズムさえも、ナショナリズムローカリズムのような狂信的愛国主義の一形態でしかない。我々が重力と距離という空間的限界に縛り付けられ続けることをよしとする理由はどこにもないが、我々が地球を飛び出て宇宙に漕ぎ出す理由はいくらでも存在する。宇宙主義者にとって死の征服は時間的限界を超越するためのもので、宇宙への拡大は空間的限界を克服するための手段でもある。我々は、いつでも存在出来て、いつでもどこへでも行ける存在になる必要がある──このような、究極的な目的意識が根底にある。
 そしてそのような理想を持つ宇宙主義者は、現在の現実を受け入れることを拒否するだけでなく、現在の自然の"非倫理的"なあり方をも拒絶する。フョードロフは自然を"盲目な力"だとした。自然の大いなる力は巨大かつ乱雑で、ありとあらゆる秩序を混沌に帰そうとし、人の命を容易に奪う。だが人類は、科学的手法によって盲目な自然を導き、正しい方向へと調和させることができるともした。ここに人類中心主義への回帰がある。このような人類による"自然の倫理化"の試みの一例として、フョードロフは当時行われていた人工降雨実験を挙げている。
 また、そのために行う"共同事業"は、宇宙主義者にとって手段であると同時に目的にもなっている。フョードロフによれば、このような死の征服と星々への船出は人類にとって取り組む価値のある唯一の事業であるだけでなく、唯一全人類が共有可能な目標でもある。この汎人類的共同事業と祖先の復活を通じて人々は血縁性(kinship)を取り戻し、全人類は血縁的連帯を獲得するという。
 ここからもわかるように、宇宙主義の理想はかなり集団主義/集産主義(collectivism)的で、ともすれば全体主義とも形容できる。例えば宇宙主義者は全ての死者を蘇生するので、死者の「死のうちに留まりたい意思」は認めない(そもそも確認できないものではあるが)。が、宇宙主義が目指しているのは全人類ひとりひとりを余すところなく不死化することで、種族としての人類の不死以上のものを目指しているということは認識されるべきである。フョードロフの提示した、このような形での集団主義は多元的連帯(multi-unity)、あるいは全的連帯(all-unity)とでも訳される。
 このような連帯への意志は正教にルーツを持つ。正教は宇宙主義を異端だとみなしているが、宇宙主義はその始まりから正教の影響を受けているだけでなく、正教と多くの概念を共有している。ところで、ありとあらゆる人体改造を否定する正教会とは違って、宇宙主義者は肉体の強化を目的とした人体改造には積極的だが、肉体そのものの放棄には否定的だ。つまり、宇宙主義者にとって、機械による肉体の置換や非物質的存在への昇華は受け入れられない選択肢になる。理由は一つではない。
 全ての祖先の復活は、宇宙主義者にとって死の征服と同じくらい重要な目標である。肉体はある個人の肉体であると同時に、彼の祖先の遺伝情報の貯蔵庫としての性質を持つ。親が子に命を与えるのとは逆に、子の遺伝子から親を産み、親の遺伝子から祖父母を産み……と全ての祖先を巻き戻し的に復活させることを可能だと考え、かつ実行すべきだとしたフョードロフと彼の支持者にとって、祖先と自分をつなぐ物質的絆を放棄することなど考えられないわけである。そもそも宇宙主義者にとって、肉体は分離不可能な"人間"の要素でもある。フョードロフは"反"物心二元論的な救済論を展開した。つまり、死者のうち蘇生されるのが精神だけでは片手落ちで、人間の頭からつま先まで、ことごとくすべてが救済されねばならないのだ。
 他のトランスヒューマニストらに比べて肉体との一体性を重視する宇宙主義者は、人間を進化させるための方法としては遺伝子工学的・再生医学的な方法を提案している。ここには、与えられた肉体を所与のものとして受け入れるのではなく、人類の意志に基づく肉体の進化を求めるラマルキズム的な発想がある。これは宇宙主義に限った話ではなく、ロシアのトランスヒューマニズムの中にはラマルキズム的発想とラマルキズムそのものが拡散しており、フョードロフィアンの中でもとりわけオカルティックな層には、人類は自然な進化(遺伝子工学的な干渉のない進化)によっていずれ不死に到達すると考える向きもいる。



 

老化との戦い

 死の征服からは外れるが、老化を遅らせる/停止させる試みもロシアで行われている*10。やる気が尽きたので詳細は省く。老化(aging)と死(death)は人類の未来のために抹殺しなければならない似通った敵だが、異なっている。ふつう、人間は老化すればするほど病気や事故によって一定期間以内に死亡する確率が指数関数的に上昇していくが、老化の克服は(自然死以外で)死亡する確率を年齢に関係なく一定にしようとする試みと言い換えることもできる(つまり、死亡する確率を0にしようとすることは意味しない)。不死主義者は老化と死の両方を克服することを目指すが、老化との戦いに参加している人々は必ずしもそうではなく、死の征服のような「非現実的かつ無責任なアイデア」を支持しない個人ないし集団も当然存在する。
 そもそも老化の遅延、あるいは完全な停止は死の征服よりもだいぶ現実的な目標だと考えられている。老化の克服は「癌、心疾患、肺炎などの老化によってリスクが上昇する多様な病気を一つずつモグラ叩き的に潰して回るよりも、根本から一気に解決してしまった方が合理的だ」という発想から容易に支持されうるし、社会保障費の削減と労働人口の拡大のような即物的な利益も提示できる。そもそも技術的な難易度(あるいは、妄想の激しさ)が死の征服と老化の克服の間では格段に違う。老化しないと考えられている生物は現実に存在する*11が、死についてはそうではない。
 老化との戦いの上で、学術的研究と同じくらい重要だとみなされているのは「老化は病である」という認識を社会に受け入れさせることだ。老化が病であるという認識が公的なものとして採用されれば、老化対策の研究を医療研究と同じ基準で実施できるようになり、治験などの実験をより効果的に行うことができる。老化研究に資金が投入されることも期待できるかもしれない。また、老化"治療"に保険が適用されるようになれば、老化対策の成果を広く共有することにもつながる。この戦略に、死を治療可能な病だとする不死主義者の教条との類似性が見られるのは偶然ではない。両者は患者支援運動をモデルとしたアクティビズムを共有している。われわれは老化あるいは死という"共通の病"を抱えている"患者"なのだ、という自己認識を基軸として、人々を団結させようと試みているのだ。

NeuroNet

 今まで見てきたものは草の根的な民間主体の運動だったが、本著の最後の章ではロシア政府による研究支援計画:National Technological Initiative(NTI)と、それに支援されたBCI機器の研究計画であるNeuroNetが紹介されている。NTIは、革新的技術の開発を支援することで国際的競争力を持つ新たな産業を育成し、国際的な技術開発とハイテク産業における将来のロシアのリーダーシップを確保することを目的とする長期的なプログラムだ。この政府主導の投資計画はトランスヒューマニズム的な不死や人体再構築へのイデオロギー的使命感を(おそらく、まったく)持っていないが、彼らに支援されているNeuroNetは、トランスヒューマニストらに興味深い選択肢を提示している。
 もともとインターネットを介して集まったアマチュアの研究家たちから始まった取り組み:NeuroNetの関心はBCI技術にある。その目標には、Avatar Project的な人体の置換はもちろん、人体の拡張と分散も含まれている。鞄を1個多く持つための、脳によって直接操作可能な三本目のアームを背中に取り付けたり、第三の目として脳波で操作出来、脳に直接視覚情報を送信できる小型ドローンを飛ばしたり、さらにそこから進んで、同時に複数の体を動かすことを可能にするようなSF的肉体拡張が現実の目標として提案されている。このようなBCI技術の展望はとても魅力的ではあるのだが、ここでは深くは扱わない。このような試みは人間の物理的な外縁を溶解させる──もしモスクワに居ながらにしてパリにある第二の肉体を動かすようなことが可能になれば、"わたし"の始点と終点がどこにあるのか明確ではなくなるので。これらの人体拡張は"人間"概念の再定義を要求するだろう。
 NeuroNetの目標はそれだけではなく、むしろ彼らにとっての本題は、BCIによるウェブの構築、つまり神経系同士で直接情報を伝達できるような新しいコミュニケーションとインターネットのあり方を実現することだ。そこでは、現代のインターネットが扱っているような文字/画像/映像などの情報伝達はもちろん、意識や感覚、記憶、経験のような、より"生"に近い情報が流通することも想定されている。このような試みはコミュニケーションを加速させ、ありとあらゆる分野の連携活動──科学研究などはポピュラーな事例だろう──を段違いに効率的にすると考えられている。何かをインターネット越しに伝えたいときに、わざわざ思考を文字に起こし、誤読されないように推敲して、それを他人に読ませるというのはあまりにも複雑かつ非効率的なプロセスだ。そんな段階をすっ飛ばして直接この思考を相手に送信できるとしたら、どれだけの労力が必要なくなることだろう。
 NeuroNetの構成員のうち一部は、この新しい通信システムが社会にラディカルな変化を起こすことを望んでいる。そこには仏教における無我の概念が影響している。いわく、NeuroNetの発展と普及がコミュニケーションを加速していけば、思考だけでなく、他者から自己を隔絶する自己の特異性/独自性/同一性も共有されるようになり、それにつれて自己と他者の思考の境界は曖昧になって、"個人"と"個人"の混交が始まる。これによって人々は「自己というものは幻想である」ことをはっきりと認識し、より他者と一体化した、というより自己/他者という区分が無意味になるような深化した協調活動を実行できるというわけである。ロシア人たちが十分な仏教知識を入手できていない可能性は置いておくとして、重要なのは、ここで血縁的連帯とも集産主義イデオロギーとも異なる、集合意識(collective consciousness)の思想が誕生していることだ。彼らの目標は、接続者たちの意識に蟻に見られるような統率(hive mind)、または一つの意識による他の意識の支配を構築することではなく、接続者全体が一つの有機体(one single organism)として思考するようになることにあるという。
 とはいえ、このような無我(no-self)、あるいは自己の共有(shared self)を志向した集合意識を構築しようとする試みは、トランスヒューマニズムの内側でもかなりラディカルなものだ。正教会と人格主義(personalism)を共有している宇宙主義者は、このような、"自己"を宇宙の原理のようなものに還元してしまう"東洋的非人格主義(Eastern impersonalism)"を受け入れ不可能なものだとみなしている。宇宙主義者は極度に集団主義的な、全体主義的とさえ形容できる社会像を理想として持つが、彼らが追及しているのは「分断されることもなければ、融合させられることもない」多くの人々による連帯であって、そこで"自己中心的な西側の個人主義"が批判されることはあれど、"個人"の概念を抹消するところまでは進まない。彼らが注目しているのは全ての人間ひとりひとりの不死であり、全体ではない。

先駆者たち

 ロシアのトランスヒューマニズムは降って湧いた思想ではない。ましてや、カリフォルニア・イデオロギーの傍流などでは決してない。そこには世紀をまたぐ、独自の思想的つながりの網と、ロシア的とでも形容されるべき特色がある。ここでは、現代のロシアン・トランスヒューマニズムに強い影響を与えた先駆者たちを追っていく。

ニコライ・フョードロフ (1829 - 1903)

 モスクワのチェルトコフ図書館の司書。正教的な目的意識を持ちながらも、人類自らによる人類の救済を主張し、ともすれば神の存在を必要としなくなる唯物的な未来思想、宇宙主義の礎を築いた。宇宙主義については上で概説したのでここでは省略する。
 フョードロフはその極度に禁欲的な生活で生前から有名だった。決して高くはない司書の給料さえ寄付してしまって、財産はほとんどなく、住んでいたのも借りた狭い屋根裏部屋で、毎晩リネンのない寝床で使い古したコートを布団に眠っていたという。宇宙主義はそういう人間の頭から誕生した思想なのだ。
 彼はドストエフスキートルストイ、ソロヴィヨフと文通しており、当初は彼らのような著述家を介して世間に自らの思想を広めることを考えていたようだ。実際多くの著述家が彼の思想を称賛したが、思想を広めるという意味ではこの試みはあまりうまくいかなかった。その後は自ら思想を宣伝することを計画したようだが、目立った出版物は遺さずに1903年に没した。フョードロフのほぼ唯一の著作と言える『共同事業の哲学』は、彼の著述・論考を死後に弟子が編纂して出版したものである。
 本著では、フョードロフの思索のうち、上で言及したようなトランスヒューマニズムおよび不死主義の観点から重要な部分しか紹介されていないが、貧困と経済的格差は死に原因するという論理、祖先崇拝の体現者としてのツァーリ観や専制の擁護、もし神が罰として永遠の苦痛を与えることを意図するならば神を否定することも厭わない徹底的に普遍的な万人救済思想など、他にも興味深い部分は山ほどある。が、いかんせんロシア語圏外ではあまり有名でないこの思想家について、ロシア語なしでアクセスできる情報量は非常に限られているし、本ページの趣旨とも外れるのでここでは扱わない。

コンスタンティンツィオルコフスキー (1857 - 1935)

 宇宙航行の父。
 ツィオルコフスキーは、その空想的なまでに先進的なアイデアと宇宙工学への貢献はもちろんのこと、彼の辿った人生そのものでも多くのロシア人にある種の教訓、あるいはロールモデルとして影響を与えている。ソビエト宇宙開発の父として盛んにその功績を宣伝されたツィオルコフスキーではあるが、生前はあまり評価されず、金銭的豊かさとは無縁な生涯を送った。貧しい家庭の13人兄弟の末っ子として育った彼は10歳の時に猩紅熱で聴力を失い、14歳まで無為に過ごしていたが、あるとき、彼曰く「突然、それ以外何も見えなくなるような数学、物理学、化学、そして発明への知的欲求」が芽生えたのだという。彼は、耳が聞こえなくても本があれば独学できることにこの時気付いた。彼にとっての、そしてことによると人類にとっての幸運は、父親が彼の才能に気づき、貧しいながらもどうにか資金を工面して、彼が独学を継続できるようモスクワに送り込んだことである。聾と貧困のために小学校さえ卒業できなかったツィオルコフスキーであったが、か細い収入から実験費用を捻出するために食費や被服費を削るような生活の中(これは彼の寿命をいくぶん縮めた可能性があると指摘されている)、チェルトコフ図書館に通いつめ、独学で卓越した知性を身に着けた。この時期に、奇しくも同じ図書館で司書をしていたフョードロフと出会っている。ツィオルコフスキーがフョードロフと思想的な意見を交わした可能性はあるものの、それを裏付ける資料は(ほんとうに残念なことに!)存在していない。が、ツィオルコフスキーが彼と彼の思想を知っていたのは確かで、自叙伝で彼について言及している。フョードロフの方もツィオルコフスキーの才能に気づいており、彼を高く評価するばかりか、本の貸し出しの面倒を見、ときには禁書を貸し出すことさえしていた。
 その後、彼はカルーガ*12の女学校で数学教師の職を得る。薄給で生計を立て、時にはキャベツを栽培したりして収入を補助しつつ著述活動を行った。あまり有名ではないが、SF小説を執筆したりもしている。が、次第に彼の興味はSFから現実の理論に移り、1903年に『反作用利用装置による外宇宙の探検』と題した論文を著す。彼はここで多段式ロケットを提案するとともに、多段式ロケットなら(空気抵抗などを無視した理想的な状況を仮定すれば)第二宇宙速度を突破して地球の重力を振り切れることを示すロケット方程式を導出し、宇宙航行への道を拓いた。彼の終のすみかともなったカルーガの人々が、ツィオルコフスキーを本物の英雄だと考えているのは理由のないことではない。
 「ソビエト宇宙開発の父」として盛んにプロパガンダの題材にされたツィオルコフスキーではあるが、同時代の学術界には評価されておらず、国家による支援も最初から行われていたわけではなかった。上の論文も元々は学術誌にリジェクトされたものを再編して科学雑誌に寄稿したもので、当初はそれほど注目されていない。そもそもソ連が建国されたころには彼は65歳だったという時代的な事情もあるが、ツィオルコフスキーの貢献がソ連国家に認知されたのもかなり遅い時期のことで、ツィオルコフスキーが経済的に豊かになることは結局なかった。帝政時代は言わずもがなである。1935年に没した彼はソビエト人の宇宙遊泳やアメリカ人の月面着陸を目にすることはなかったが、彼の宇宙への情熱はセルゲイ・コロリョフ*13ら反動推進研究家によって受け継がれ、米ソの宇宙開発競争に直接つながっていく。ツィオルコフスキーや、のちの民間主体の反動推進研究グループ:GIRDにみられるような、国家主導ではないボトムアップな活動が主体だった初期ソビエト宇宙開発の歴史は、現代のトランスヒューマニストたちを刺激している。
 ところで、衛星に着陸した程度で満足して宇宙開発をやめ、地球軌道上に気象衛星天体望遠鏡を浮かべて足踏みしている人類とは違い、ツィオルコフスキーはより先を見据えていた。彼の動機はいつか訪れる太陽の寿命、そして宇宙全体の熱的死にも耐えうるような星間文明の礎を作るために、宇宙の深さを貫けるような星間航法を生み出すことで、ロケット研究はあくまでその手段にすぎなかった──という逸話は、ツィオルコフスキーを評するうえで逃されてはならないものだ。彼は彼自身を、ロケット技術者である以上に思想家だとみなしていた。
 彼は個々人の不死はそれほど重視していなかったが、人類全体の不滅は彼にとって何より重要な目標だったし、そのために人類を改良する必要性は強く感じていた。彼は多くの同時代人のように、そしてフョードロフとは対照的に、優生学的な"選別"によって人類をより"優れた"存在にすることを考えていた。そしてツィオルコフスキーが人類の進化の終着点、あるいは究極の理想として提案したのは、光輝としての人類(radiant mankind)というアイデアである。そこでは心と身の区別が失われ、人類はある種の"光"のような非物質的存在へと変貌し、かつ一つの生命へと統合される。もはや、そこに住まう人々を分断する物質的世界は必要とされなくなる。人類はこのような高次存在へと昇華していく過程においてすべてを知り、かつ何物をも必要としなくなるだろう。神々の領域へと到達するのだ。ここにおいて宇宙は完全になる──と考えた。人間ひとりひとりの尊厳を重視して、いかに他者と共存するかを模索し続けてきた正教の伝統を受け継いだフョードロフの思考とは、ツィオルコフスキーの理想は対照的である。しかし、この発想もまた多くの宇宙主義者とトランスヒューマニストに直接的な影響を与えている。流石にこのアイデアそのものは先を見据えすぎているが、非物資的存在への昇華と人類全体の"一つの存在への"統合、という観念は、夢想的なオカルトだとして切り捨てるには魅力的すぎたようだ。

ウラジーミル・ヴェルナツキー (1863 - 1945)

 ヴェルナツキーの提示した"生物圏"と"叡智圏"の概念は、人類とその知性の統合を説明する枠組みとして一定の効力を保持し続けている。詳細は私の理解不足と意欲の限界により割愛するが、彼の発想が宇宙主義に影響を与えていること、彼も宇宙主義の潮流の一部であることは忘れておかないようにする。

アレクサンドル・ボグダーノフ (1873 - 1928)

 ここでいうアレクサンドル・ボグダーノフは同姓同名の別人などではなく、ボリシェヴィキの大物のあのボグダーノフである。共産主義者ボグダーノフはレナ川おじさんにボコボコに叩かれて革命前に失脚してはいるものの、初期のトランスヒューマニスト、あるいは最初のバイオハッカーとしてのボグダーノフの先進的思想はロシアのトランスヒューマニストだけでなく、シリコンバレー流の超人間主義リバタリアンにも──見当違いな理解からではあるかもしれないが──影響を与えている。ここでは彼の遺産のうち、トランスヒューマニズムに強く影響を与えたもの、すなわち、建神論(God-building)と生理学的集産主義(physiological collectivism)に注目する。

建神論

 ボグダーノフは、20世紀前半を中心にロシアの共産主義世界で流行した思想、建神論の父の一人であると言ってよいと思う。建神論といってもオカルト的な方法で邪神を召喚するとか、あるいはフョードロフの提案するような、物理的に神の役割を代替しようとする類の試みではない。
 あるロシアの作家は『心の神殿をいつまでも空っぽにはしておくことはできない』と登場人物に語らせたが、建神論は従来宗教が占めていた地位にそのまま"人間"をスライドさせようとする試みであるともいえる。崇拝されるのは人間とその可能性そのものである。ここにはジャコバンの理性崇拝のカルトとの近縁性が見て取れる。建神論の特徴的な点は、世俗と宗教の二項対立を越えて二者の境界をにじませ、世俗の宗教とでも呼べるものを作り上げようとした点だと見なされている──見なされているだけで、建神論はただの理性崇拝ではない。ともかく、建神論者はロシアの民衆を動かすのに理性と論理では不十分だと考え、儀礼的な崇拝プロセスと感性によって人民の共感を引き出すことを模索していた。ここにまさに20世紀西欧の産物であるファシズムの手法との類似が見られるのは非常に興味深い事実だ。が、建神論はその"宗教性"ゆえにレーニンに批判されるところとなり、ボグダーノフは権力闘争に敗北してボリシェヴィキを去ることになった。
 建神論にはその敵対的な自然観や不死の追及、人類の精神的、物理的統合(!)の主張、近代的人間観と物心二元論を超越する試みなど宇宙主義との類似点(または、影響を受けたと考えられる点)も多く、共産主義者の立場からの宇宙主義受容の実例として非常に興味深いものがあるのだが、建神論についてはそもそも私の理解が足りておらず、本書でもわずかな文量しか割かれていないので詳説はしない。ここは後の課題としたい。

生理学的集産主義

 一般に、(出生後のごく短い時期を除けば)老化すればするほど癌などの疾病による死亡リスクは上昇する。一方、結核などは主に若者の間で流行するものの、老人に感染が広がることはあまりない。そこでボグダーノフは、老若が相互に輸血しあうことで、老人は若者の血液によって若返り、若者は老人の血液によって免疫力を強化できる、互恵的な関係を構築できると考えた。このSF的な血液交換の理論が現実の生物学とどう衝突するのか──ここがこの話で一番重要な点である気もするが──は一旦置いておく。注目すべき点は、この血液交換によって、健康だけでなく人間の連帯も増進することができると彼が考えたことだ。部分的に肉体を共有することは自己と他者の境界をかすませ、"人間"の外縁を皮膚組織に見出す自然な発想は自然でなくなる。重要なのは、これが老人による若さの搾取(またはその逆)ではなく、老若による相互的なものであるということである。このような方法で自己の再定義を迫ることで人間の自意識を拡張させ、集産主義的精神と社会性を涵養し、単に財産を共有する以上に平等な社会を作り出すことができるとボグダーノフは考えた。これが生理学的集産主義の概念である。ボグダーノフはこの肉体共有によって自己と他者の境界をにじませるだけでなく、男女の境界をにじませ、彼がユートピア小説『赤い星』で提示したような中性的人間を誕生させることも可能だと考えていたようだ(急進的すぎると考えたのか、男女間での血液交換は実行していない)。彼の目標は真に平等な社会を打ち立てることにあり、血液交換とそれに伴う寿命延長は手段でしかなかった点は他のトランスヒューマニストと一線を画する点だ。だがしかし、彼が『個人主義の時代』と呼んだ時世にあって科学的手法で人間の物理的性質を書き換え、"個人"の概念を転覆せんと試みたことは、のちにトランスヒューマニストらにも影響を与えている。
 なお、ボグダーノフは結核感染者と輸血実験を行ったために結核により死亡している。

ソビエト連邦 (1922 - 1991)

 逆に影響を与えていないと考える方がおかしい気もするが、ほぼ20世紀全体を通じてロシアを支配したこの国家とその権力は当然ロシアン・トランスヒューマニズムに影響を与えている。そもそも、ロシアン・トランスヒューマニズムの思想史の大部分はソ連で紡がれたのである。ソ連が現代のトランスヒューマニズムに残した人的・科学的遺産も少なくない。
 トランスヒューマニストが不可避に持たなければならない、未来志向の"想像力"を鑑みれば、ソ連が実行した宇宙開発とその"夢"が頻繁に歴史的教訓として持ち出されるのはさほど不思議なことではないと思う。星間植民を目標の一つとする宇宙主義者にとっては、宇宙開発の実績はそのまま遺産でもある。
 ソ連が崩壊したのはたかだか30年ほど前の話なので、ソ連時代に教育を受けた人間はトランスヒューマニストたちの間にも当然多い。ソ連のSTEM教育によって育成された理工系人材たちが、ロシアン・トランスヒューマニズムの活動を支える、草の根的な非営利研究の基盤になってきたという言及もある。
 また、ソ連自体もトランスヒューマニズム的発想を抱いており、社会工学的な方法、あるいは工学的な方法で人間関係と人間の依拠する新たな諸条件を作り出そうとする試みもあった。この項は対象が巨大すぎてまとめ切れないのでここでいったん切って次回に回す。

ロシアの特色ある超人間主義

 ここまではロシアのトランスヒューマニズム運動とその源流を見てきたが、ここからは、”西側”のトランスヒューマニズムと比較したときに見えてくる、ロシアのトランスヒューマニズムの持つ特異性について考えてみたい。ロシアにおける運動は多彩なので、全てが以下の性質にあてはまるわけではないが、ロシアのトランスヒューマニズムは一般に、カリフォルニア的なリバタリアン人間主義(libertarian transuhumanim)よりも技術的進歩主義(techno-progressivism)、左派加速主義(left-accelerationism)に近い発想を持つ。が、それらとも微妙かつ重要な違いを持っている。

個人主義

 程度の差はあるが、ロシアのトランスヒューマニストたちの大部分は"西洋的な"個人主義思想、とりわけ新自由主義(neoliberalism)について疑念と反感を抱いている。上述したように、トランスヒューマニズム的な人体への介入は不可避に"人間"概念の再定義を迫るが、ロシアのトランスヒューマニストにはそれを個人主義を克服するための手段として用いようとしている節がある。個人主義の概念が依って立つ"人間"、あるいは"個人"、"自己"などの基礎的概念が成立する物質的基盤そのものを技術的に解体しようとする試みすら存在するのは上に示した通りだ。
 そのようなラディカルな層は薄いにせよ、科学技術による人間の強化には精神的成長と公共心の発達が伴わなければならないとしたフョードロフの理念は、ロシアのトランスヒューマニストたちの間で広く受け入れられている。フョードロフが目指したのは共同事業を通じて全人類が血縁的に連帯した世界であり、超人と化したエゴイストたちが永遠の競争を続ける光景ではない。必ずしもフョードロフと同じ未来像を持っているわけではないロシアン・トランスヒューマニストたちにも、後者については同意する者の方がはるかに多いだろう。

集産主義的普遍主義

 高名なフョードロフ研究家にしてフョードロフィアンであるS.G. Semenovaは、KrioRusに申し出られた無償の人体冷凍保存を謝絶した。彼女の娘で、自身もフョードロフィアンのAnastasia Gachevaは、母の行動を「彼女は科学の進歩がいつか、選ばれた顧客にではなく、全ての人間に不死になる機会を与えるものだと考えていた。彼女は選民(the elect)になるのではなく、フョードロフのように、人々(everyone)の中に留まることを望んでいた」と説明している。この逸話は、フョードロフの普遍主義が現代に与えている倫理的影響を象徴している。
 フョードロフィアンでない人々の間でも、トランスヒューマニズムの求める成果──不死や肉体の強化・置換──は全ての人間に共有されなければならないという理念は共有されている。トランスヒューマニズムはカリフォルニアの超富裕層が経済的格差に伴う分断をさらに加速させることを正当化するために存在しているのではなく、全ての人類を前進させるために存在しているというわけだ。不死や復活、人体改造の恩恵が少数の特権身分によって独占されてはならない、とする発想は、ロシアのトランスヒューマニストたちが営利目的の研究活動に懐疑的な視線を向ける理由にもなっている。不死は生得権であり、それが提供されるのは商品としてではなく福祉としてでなければならない、という主張がここに横たわっている。

多様性

 これを説明する理由ははっきりとは掴めなかったが、ロシアのトランスヒューマニストはかなり多様だ。大部分が男性からなるアメリカのトランスヒューマニストとは対照的に、ロシアのそれの男女比はほとんど偏っていないという。年齢的にも職業的にも多様だが、若年層には"革新的"なトランスヒューマニストが、熟年層にはフョードロフィアンなどの宗教的な"保守"が比較的多い。宗教(とりわけロシア正教)の影響はロシアン・トランスヒューマニズムの特徴の一つと言ってよいだろう。宗教はトランスヒューマニズムに不死の追及への動機付けを与えるだけでなく、倫理的・理論的基盤を与える役割をも果たしているのは上で述べたとおりだ。

国家

 国家への強い期待もロシアン・トランスヒューマニズムの特徴と言えるかもしれない。上で述べたような左翼的風潮もあるが、ロシアのトランスヒューマニストには、そもそも"近視眼"の市場には、宇宙開発や死の征服のようなムーンショット的な試みに貢献する能力はないという疑念が根強い。国家は、短期的には利益をもたらさない死の征服事業の牽引役としての役割を期待されている。ゆえにトランスヒューマニストの戦術には、単なる技術開発だけでなく、死と加齢が治療されるべき病であることを認識し、それらとの戦いに参加するよう公・民に求めるロビイング活動も含まれている。また、肉体の機械化やBCI技術のような領域に投資することが、ロシア国家が──かつて宇宙開発でやったように──新たな市場を創造し、そこでイニシアチブを握るための戦略としても機能することを意識している向きもある。実際にそのような戦略を実行しているのがNTIである。もちろん、このような国家の干渉への警戒心も当然存在している。
 トランスヒューマニストと国家の関係は、一方的な期待だけではない。国家そのものの変革と統合がロシアン・トランスヒューマニストの目標に含められることは多い。本書の文中ではよく国家理念(national idea)という語が話題に上る。不死の追及を国家理念に加えようとする、あるいは肉体の機械化のような"不信心"が国家理念に侵入するのを防ぐ、というような文脈で国家理念はしばしば思想的攻防の対象とみなされるようだが、それだけではない。Itskovのようなトランスヒューマニストは、彼らの遠大な理想が新たな産業を育成するためのきっかけになるだけでなく、国家を統合するための新たな共通目標になりうるとも考えている。こういった思考の背景には、ソビエト連邦そのものと、ガガーリンに終着する一連のメガプロジェクトからの類推があることは間違いない。
 総じてロシアのトランスヒューマニストは、リバタリアン的あるいはアナーキーアメリカのそれとは違って、国家や共同体からの"個人"の解放ではなく、人間の"個人"からの解放と全人類の統合を志向していると言ってよいだろう。

初読の感想

 やはりロシア語はやらねばならなかった。
 本著を読んでの一番の収穫は、アングロ・サクソン語圏では決して生まれず、かつ注目もされないような独自の思想的伝統が今でもロシアに根付いているという確信を抱けたことだ。トランスヒューマニズムというかなり狭い領域の内側の中だけの話なのかもしれないが、少なくとも私はそこにドストエフスキー的なものの存在を見出した。
 とりわけ宇宙主義とフョードロフの思想は既存トランスヒューマニズムに対するカウンターかつオルタナティブとして非常に魅力的だ。が、いかんせん19世紀末に形成されたにしては先を見据えすぎている思想なので、その中核にオカルトと極度の楽観主義が侵入することを許してしまっている。これを現代に再展開しようとするならば、どうにか食える部分だけかき集める必要があるだろう。その上で『共同事業の哲学』は非常に重要なテキストなのだが、どうにも日英語でこれにアクセスするのは難がありそうだ。一応1943年に白水社から翻訳が出版されたりはしているのだが、これを読もうと思ったらたぶん国会図書館に行かなければならなくなると思う。
 さんざん上でこの話を繰り返したのでもう飽き飽きかもしれないが、トランスヒューマニズムは"人間"や"生命"などの諸概念の厳密な定義を要求するだけでなく、それらの再定義を強いるものでもある。フョードロフやツィオルコフスキーが考えたようにエントロピーに抵抗することは不可能かもしれないが、我々が今認知している現実の構成要素を破壊するくらいならさほど困難なくやってのけるだろう。しかもトランスヒューマニズムがことを成す場合、それは科学的かつ物理的な方法によるものなのだ。20世紀の集産主義者は形而上学的な方法で個人主義を破壊しようとして失敗した。だが時代は進み、現実はフョードロフの誇大妄想に(部分的にではあれど)追いつき、追い越しつつある。21世紀の集産主義者は形而下の手段を用いることができるようになるだろう。ソビエト連邦は崩壊したが、大きな物語とanthropocentrismの世紀はまだここで続いている。
 ともかく、より研究を進める必要がある。ロシア語が必要とされるのは疑いようがないし、他にも多くの領域に触れ、体系を飲み込んで、本棚を埋めていくことが私にとって必要なのだとはっきり認識した。本著ももう1度は通読しておきたいし、より誠実で具体的な話を展開するために、参考文献になりうる著作を収集する必要があるだろう。
 

 本ページの最後に、NeuroNetの研究員のPavel Lukshaによるツィオルコフスキー評を載せておく。これは私にとって忘れることのできない一節になった。

"Quite a Russian story: one is sitting in deep shit but thinking constantly about stratospheric issues──not about how to sell more cabbage but how to save humanity. He understands that he won't live to see it but nonetheless wants to get something out there, hoping that somewhere, someone will be moved by it."

"実にロシア的な人生だ。ひどい苦境に立たされながらも、常に空の向こう側のことを考えていた──どうやって多くのキャベツを売るかではなく、どうやって人類を救うのか、だ。彼は自分が生きて自分の思い描いた理想を目撃することはないと理解していたが、にもかかわらず、何かを生み出そうと考え続けた。いつか、どこかで、誰かが自分に続くことを望んで。"




 

*1: ここでは、遺伝子工学、人工頭脳学(サイバネティクス)、計算機科学などの科学技術の成果を用いて人間を強化・変質させようとする運動ないし世界観という程度の意味で扱う。超人間主義とも。

*2: 実際のところ、加速度的に膨張している宇宙が熱的死するのか否かという問題の答えは21世紀になってもまだ出ていない。とはいえ、熱的死による宇宙の終焉という破滅的なモデルが提示されたことが当時の世界に衝撃を与えたことは間違いない。

*3: https://kriorus.ru/en

*4: http://2045.com

*5: Brain-computer Interface のこと。脳と機械を直接干渉させ合うインターフェースを指す。マウスやキーボードなどの入力装置を介さず思考だけで機械を操作する、モニターやスピーカーなどの出力装置を介さずイメージを直接脳内に投影するようなSFチックなものを想像してほしい。この技術は決して想像力の内側にしか存在しないものではなく、BCIで動かせる義手や"視力を持つ"義眼など、補綴としてのBCIシステムの研究が進められている。Itskovも、後述するBody AやBody Bの技術が、閉じ込め症候群の患者や身体障碍者に新たな可能性をもたらせると主張している。BMI(Brain-machine Interface)とも。

*6: 物心二元論モデルを採用している場合でも、人体冷凍保存の概念は必ずしも破綻しないことは明確にしておく必要があると思う。数百年の冷凍の最中にも霊魂が-196℃で保存されている肉体にとどまっていてくれるか、ちゃんと元の肉体に帰ってきてくれるなら何も問題はないわけで。後述するフョードロフィアンも肉体の一体性を重視するが、彼らの中にも物心二元論的な発想に立つものは存在する。

*7: 実際、本著の文中では宇宙主義者(cosmist)よりもフョードロフィアン(Fedorovian)の方がよく使われているし、厳密にはおそらく宇宙主義者とフョードロフィアンの指すものは同等ではない。ここでは日本語圏において宇宙主義という語がすでにかなり浸透していることと、フョードロフ自身の思想よりも後世の"宇宙主義者"による受容に注目することを理由に宇宙主義者という呼称を採用する。

*8: ソ連当局は最初から最後まで無神論を堅持し続け、現実にそのような活動を弾圧したが、コムソモールのマルクス主義勉強会だと公称しておいて実際には東洋思想を研究するサークルを作ってしまう、という風な抜け穴が無かったわけではないらしい。

*9: これだけ豊かな想像力を持っていたフョードロフがどうして超光速航法を妄想できなかったのかは疑問である。

*10: ロシア外の地域で行われていないことは意味しない。とくにアメリカでの研究は盛んで、ロシアから"流出"した生物学者/生化学者がかなり貢献しているとされる。

*11: ベニクラゲ、ハダカデバネズミなど。

*12: モスクワから200kmほど離れたところにある都市。ツィオルコフスキーの住んでいた街として有名。

*13: ソ連の航空機・ミサイル/ロケット設計者。ツィオルコフスキーから直接影響を受けたと明言しており、20代のときに彼と会っている。GIRDとも関係が深い。冤罪でグラーグに送られていたこともある。世界初の人工衛星スプートニクや、ガガーリンを乗せた宇宙船ボストークを設計し、ソ連の宇宙開発に大きく貢献した。